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社長&顧問ブログ

2025.6.26

萩明倫館

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 吉田松陰と その意思を受け継いだ明治維新の立役者の

話しでした。

 

ここで 疑問が出るのは 何故 長州藩から倒幕尊王思想が芽生えてきたのか??

今日はこの話に続きます、、、。

 

江戸時代、徳川幕府の統治が全国に行き渡り、表面上は泰平の世が続いていましたが、

そのなかで長州藩、今の山口県を拠点とする藩には、

なぜか幕府に対して反発の色を強め、最終的には尊王攘夷運動の中心となっていきました。

 

その理由を考えるとき、長州藩の歴史的な背景や、そこに根付いた朝廷との関係、

そして藩士たちの思想的な変化が大きく影響していたことが見えてきます。

 

まず、長州藩の成立そのものに注目すると、関ヶ原の戦いで西軍の中心だった毛利家が敗れ、大幅に所領を削減されて周防・長門の二国に転封されました。

 

これは毛利家にとって大きな屈辱であり、以後も「減封の怨み」を心に秘め続けることになります。この感情は、幕府への表向きの従属の裏で、内心では「いつか見返したい」という反骨精神として蓄積されていきました。

 

そしてこの怨みを正当化する思想として、やがて「尊王」の考えが結びついていくのです。

 

つまり

「徳川は天皇の権威を簒奪しているのではないか」

「本来、日本を治めるべきなのは天皇である」という考えが、

毛利家の内部、特に学問所や藩士たちの間に広まっていきます。

 

また、長州藩は伝統的に儒学を重視しており、

とくに藩校明倫館では、朱子学を通じて「忠義」や「礼」の観念が育まれていきました。

 

朱子学では君主への忠誠が重視され、その「君主」は誰かといえば、

それは幕府将軍ではなく、あくまでも天皇であるという意識が育っていきました。

 

特に、江戸後期に国学が興隆し、

「日本という国は神代の昔から天皇を中心として治められてきた」という考えが再び脚光を浴びると、長州藩士たちは「天皇中心こそが正統」という思想を持つようになります。

 

そして、そのような尊王意識を高めた人物たちの中に、吉田松陰のような思想家が登場し、大きな影響を与えていくのです。

 

松陰は自らの学びと経験をもとに、

「幕府ではなく、天皇を中心とした国づくりを目指すべきだ」と強く訴えました。

彼の松下村塾では、多くの若者が教えを受け、後の維新の立役者となる久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文らが輩出されていきました。

 

また、長州藩は地理的にも朝廷のある京都に比較的近く、歴代藩主が朝廷との交流を持っていたという背景もありました。

 

とくに、幕末に朝廷を尊ぶ気運が全国に広まる中で、

長州藩ではこの朝廷との近さや親近感が強まり、朝臣との人脈も徐々に形成されていったのです。

 

例えば、尊王攘夷を説いた公家の中山忠光や三条実美らとの連携が深まり、

政治的な意味でも「天皇のために動く藩」という自覚が醸成されていきました。

これは単なる思想ではなく、政治的な実行力を持つまでに成熟していきます。

 

つまり、長州藩の尊王思想は、単なる理想論ではなく、

歴史的怨恨、教育的土壌、思想的指導者の存在、そして朝廷との具体的な人脈や交流が絡み合って形成されていったものであり、

これが徳川幕府という巨大な存在に対して反旗を翻す原動力になっていったのです。

 

長州藩の動きがなければ明治維新という大きな変革は起こらなかったともいえるほど、

彼らの「尊王」の思いは強く、そして深かったのです。

 

儒教が大きく影響してるのですが そもそも儒教とは???の

話しは、、、

 

明日に続く、、、、。

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