
EXECUTIVE BLOG
2025.6.27
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 何故長州藩から倒幕思想が芽生えたのか? の話しでした。
今日は そもそも 何故長州藩は儒教を受け入れていったのか? の話に進みます、、。
長州藩が傾倒した儒教とは、
もともと古代中国の孔子が説いた教えを源流とする思想体系で、
「人と人との正しい関係を築くことで社会の秩序と調和を保つ」
という考えを大切にするものでした。
日本では神仏への信仰のような宗教というよりも、
「人としてどう生きるべきか」「社会がどうあるべきか」
を考えるための道徳や倫理の教えとして広まりました。
儒教では、特に「徳」を重んじます。
思いやりや人間愛を意味する「仁」、道徳的に正しく生きる「義」、
礼儀や社会的な秩序を守る「礼」、物事を正しく判断する知恵である「智」、
約束を守り誠実であることを示す「信」などが基本的な価値観として説かれています。
また、人と人との関係についても「五倫の教え」として具体的に示されており、
親子の関係(親には孝行)、主従の関係(君主に忠義)、夫婦の関係(互いの敬愛)、
年長者と若者の関係(年長者への敬意)、友人同士の関係(信頼と誠実)といった、
日常生活の中でどう振る舞うべきかをわかりやすく示しています。
江戸時代に入ると、幕府は統治の柱として儒教をとくに朱子学という系統の教えを奨励し、全国の藩もこれに従って学問や政治に取り入れていきました。
長州藩もその例外ではなく、むしろ他の藩以上に熱心に儒教を導入し、
それを政治・教育・思想の根幹に据えていったのです。
その背景にはいくつかの理由があります。
まず、財政難や社会不安に悩まされていた長州藩にとって、徳によって政治を行い、
上に立つ者が模範を示すことで民衆の信頼を得るという儒教の「徳治主義」は、
藩政改革に取り組む上での大きな支えとなりました。
人を力で抑えるのではなく、徳で導くという考えは、
改革の正当性を示すうえでも説得力があり、
為政者の精神的な指針として活用されたのです。
また、武士を中心とする社会であった長州藩にとって、
儒教が教える「忠」や「孝」の価値観は、武士道と非常に親和性が高く、
武士の理想像を形づくる上でも重要な役割を果たしました。
主君に対する忠義、親への孝行といった考え方は、
のちに尊王攘夷運動の中で「天皇への忠義」としても転用され、
明治維新へとつながる精神的な柱にもなっていきます。
さらに、吉田松陰の存在も見逃せません。
長州藩出身の松陰は、儒教の精神を単なる形式や教科書的なものにとどめず、
「実際の行動に移すことが大事である」という実践的な考えに変えていきました。
彼は孟子の言葉「義を見てせざるは勇無きなり」、
つまり
「正しいとわかっていながら行動しないのは、勇気がないからだ」
という教えに強く感銘を受け、学問を知識にとどめるのではなく、
社会を変えるための原動力にしようとしました。
松陰の思想は後に彼の門下生たちに受け継がれ、明治維新の原動力となっていきます。
このような思想的な土壌を支えていたのが、長州藩の藩校である「明倫館」です。
この学校では朱子学を中心とした儒教教育が徹底されており、
藩士の子弟たちは幼いころから儒教的価値観を学び、
人としての在り方や為政者としての心得を叩き込まれました。
明倫館は単なる学校ではなく、志を持った人材を育成するための精神鍛錬の場でもあり、
ここから多くの維新志士が育っていったのです。
このように、長州藩にとって儒教は単なる中国由来の古典的思想ではなく、
社会をどうあるべきか、政治をどう行うべきか、人としてどう生きるべきかを教える
「生きた教え」として根付いていました。
特に江戸末期の混乱期には、何が正しいのか、誰を信じるべきかが問われる中で、
儒教の教えは人々の心の支えとなり、
若い志士たちの精神的なエネルギーとなっていきます。
こうして長州藩が儒教を深く取り入れたことは、単なる藩政の安定だけでなく、
日本の近代化へと続く大きな思想的な流れを生み出すことにもつながっていったのです。
このようなしっかりした教えを学んだ長州藩から何故????
の話は
明日に続く、、、。