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社長&顧問ブログ

2025.7.19

近衛文麿

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 大東亜共栄圏の話しでした、、

今日もこの話の続きになります、、、、。

 

江戸時代、日本は長い間「鎖国」という形で外国との関わりを最小限にしながら、

自国内での平和や安定を守り続けていました。

しかし時代が移り変わり、幕末には欧米列強の圧力によって開国を迫られ、

日本は急速に近代化の道を歩むことになります。

 

明治維新を経て、日本は「富国強兵」「殖産興業」というスローガンのもと、

産業や軍事力の強化に努め、

やがてアジアの中でも特に欧米と肩を並べる近代国家としての道を切り開いていきました。

 

こうした背景があったからこそ、江戸時代のような内向きの国から、

逆に世界に対して影響力を持とうとする国へと

大きく方向転換を果たすことができたのです。

 

明治から大正、そして昭和へと時代が進む中で、

日本は周辺アジアへの影響力を徐々に強めていきます。

 

日清戦争では清国に勝ち、台湾を獲得し、朝鮮の独立を導きました。

続く日露戦争でもロシアに勝利し、満州南部に権益を得て、

アジアの中で日本が大きな存在感を持つようになります。

 

これらの戦争を通じて日本は、

「アジアで唯一、白人列強に勝った国」としての自信を深め、

「アジアのリーダーとして他の国々を導くべきだ」

という考えが徐々に広がっていきました。

 

このような考えが形となっていったのが、

昭和の時代に現れた「大東亜共栄圏」という構想です。

 

この言葉は、文字通りには

「大きな東アジアで、共に栄える世界」という意味であり、

一見するととても理想的な響きを持っています。

 

欧米列強の植民地支配からアジアの国々を解放し、

アジア人自身が手を取り合って、

平和で豊かな世界を築いていこうという理念が込められていました。

 

この構想が公式に登場したのは、1940年、昭和15年のことです。

近衛文麿という人物が日本の首相を務めていた時代で、

彼の内閣が「新体制運動」と呼ばれる国家改革の方針を進める中で、

「大東亜共栄圏」が政策の柱として据えられていきました。

 

近衛文麿は、ヨーロッパでナチス・ドイツが台頭し、

アジアでは欧米列強の支配に苦しむ国々が多い中で、

日本こそがその流れを変える存在になれると信じていたようです。

 

そしてその信念をもとに、「東亜新秩序」という構想を打ち出し

、やがてそれは「大東亜共栄圏」という形に発展していったのです。

 

しかしこの構想は、近衛文麿ひとりの発想ではありませんでした。

その背後には、軍部の力強い推進と、

国家主義的な思想家たちの支えがありました。

 

特に陸軍の中には、

アジア全体を巻き込むような大きな秩序構想を考えていた人々がいて、

そのひとりが石原莞爾という軍人でした。

 

石原は、アジアの自立と統一のためには、満州に独立国家をつくり、

そこを拠点にアジアの解放を進めるべきだと考えており、

これが後の「満州国」建国へとつながっていきます。

 

また思想面では、大川周明や北一輝といった人物たちが、

「東洋の精神」「アジア的正義」といった言葉で日本の使命を語り、

日本はアジアの兄貴分として

他の国々を助けるべきだという考えを広めていきました。

 

こうした思想が組み合わさって、

「日本を中心としたアジアの新秩序」が政策としてまとまり、

政府や軍の動きに反映されていったのです。

 

しかし、この「大東亜共栄圏」は、

理想と現実に大きなギャップを抱えていました。

 

確かに日本は

「欧米の植民地支配からの解放」という言葉を使っていましたが、

実際には多くの地域で日本が軍を送り込み、

現地を占領し、自国の資源や利益を優先していくという行動が目立ちました。

 

表向きは「共栄」でも、実態は「支配」であったという点が、

多くのアジアの人々にとって納得のいかないものであったのです。

 

たとえばフィリピンやインドネシア、ビルマなど、

欧米の植民地だった地域では、

日本軍の進駐によって一時的に宗主国の支配が崩れたものの、

代わりに日本の命令や統治が始まり、

現地の人々には重い労働や徴用、時に弾圧が課されることもありました。

 

つまり、「解放者」として来たはずの日本が、

次第に「新たな支配者」として見られるようになっていったのです。

 

それでは日本国内では、この政策に反対する声はなかったのでしょうか??。

 

実は、当時の日本にも

「本当にこれで良いのか」と疑問を持つ人たちはいました。

自由主義的な知識人や、一部の官僚、政治家の中には、

「理想と実態がかけ離れている」と考える人もいましたし、

実際にそうしたことを文章に残している例もあります。

 

しかしこの時代、日本国内では

言論統制や思想の取り締まりが非常に強く、

政府や軍の方針に異を唱えることは、

すぐに「非国民」とされてしまうような空気がありました。

 

新聞やラジオもすべて国の管理下に置かれ、

自由に物を言うことは難しかったのです。

 

ですから、たとえ心の中で違和感を持っていたとしても、

それを表に出すことはとても勇気がいることであり、

多くの人は沈黙を選ばざるを得なかったのです。

 

また、戦地に派遣された兵士や現地統治に関わった役人の中には、

実際にアジアの人々の生活を目の当たりにして、

共栄の理想と現実の落差を痛感したという人もいました。

 

しかしそうした声も、

多くは中央政府に届く前に握り潰されるか、無視されてしまいました。

 

こうして、大東亜共栄圏という構想は、

当初掲げられた「共に栄えるアジア」という美しい理想とは裏腹に、

次第に「日本中心のアジア支配」という現実へと変質していったのです。

 

江戸時代の「内にこもる日本」から、

昭和の「外へ広がる日本」へと移り変わったその歩みの中には、

確かに時代の要請や世界の流れがあったのかもしれません。

 

しかしその中で、

本当に他国と共に手を取り合って進もうとしたのか、

それとも自国の利益を最優先にしたのか、

今となっては問い直さねばならないことも多いのではないでしょうか。

 

大東亜共栄圏という言葉の中に込められた理想と現実、

そのねじれの歴史を学ぶことは、

今の時代を生きる私たちにも大切な教訓を与えてくれるのかもしれません。

 

で明日は

満州国設立への話に 続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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