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2025.8.5
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 出雲大社が縁結びの神社だと言う話でした、、、。
日本全国の人々にとって、
出雲大社といえば「縁結びの神様」として広く知られています。
多くの方がそのご利益を願い、夫婦円満や良縁成就を祈って訪れます。
さらに、10月になると全国の神々が出雲大社に集まるという話も、
どこかで聞いたことがあるという方が多いと思います。
そしてその時期、日本各地では「神様がいなくなる月」という意味で
「神無月」と呼ばれ、逆に出雲では「神在月」と称されます。
このように、10月に全国の神々が出雲に集結するとされているのは、
単なる伝説や風習ではなく、
日本古来の神道信仰や神話に深く根ざした特別な意味を持っているのです。
ではなぜ、
10月に出雲大社に神様が集まるとされるようになったのか、
そしてその神々の集まりとは一体何を意味しているのかの話に進みます。
日本神話において、出雲の神様といえば「大国主大神」です。
この神様は国づくりの神、そして縁結びの神として知られていますが、
それは単に男女の縁に限らず、
人と人、会社と会社、土地と人、
すべての「ご縁」を結ぶという広い意味を持っています。
神話によれば、
大国主大神は天照大神の命によって天孫に国を譲った後も、
この世に残る人々を見守る存在となり、出雲の地に鎮座しておられるのです。
さて、神無月に全国の神々が出雲に集まるという言い伝えですが、
その背景には『古事記』や『日本書紀』などの古典神話とは異なり、
後世に生まれた民間信仰の要素が強くあります。
平安時代の文献や、中世以降の神道説話などにおいて、
「神無月になると八百万の神々が出雲に集まり、様々な縁結びの相談や決定を行う」
とされるようになりました。
この集まりを「神議(かみはかり)」と呼び、
人間界のあらゆる縁や運命、病気、寿命、仕事、結婚、出会いなどについて、
神々が話し合って決めると信じられてきたのです。
こうした思想が広まり、
「神無月」という言葉が「神様が留守になる月」として
人々に受け止められるようになったのです。
では、
「神無月」という言葉はいつごろから使われ始めたのでしょうか。
その語源については諸説あります。
一説には「無(な)」は「の」を意味する助詞であり、
「神の月」という意味だったという解釈もありますが、
現在のように「神様が不在である月」という捉え方が定着したのは、
中世以降、特に鎌倉時代から室町時代にかけてのことだと考えられています。
このころになると、各地の神社や庶民の間で、
神無月に神様が出雲へ出向かれるという信仰が広まり、
出雲では逆に「神在月」と呼び、
神々を迎える特別な祭事が行われるようになっていきました。
出雲大社では現在でも、
旧暦の10月に「神在祭」という祭りが執り行われています。
この祭りは、神々が実際に出雲へ降り立ち、
出雲の地において様々な神議を行うという古来の信仰を今に伝えるものです。
神在祭では、まず全国から神々をお迎えする「神迎神事」が行われ、
日御碕神社の近くの海岸にて神々を迎え、
そこから列をなして出雲大社へと案内される儀式が行われます。
その後、出雲大社の本殿背後にある
「十九社」という建物に神々が滞在されるとされ、
この期間中に様々な祭典が厳かに行われるのです。
ちなみに、「十九社」は実際に神様が泊まる宿泊所のようなものであり、
昔の人々はここに全国の神々が集まって相談事をしていると信じていました。
そしてこの神在祭は、全国から多くの参拝者が訪れる時期ともなっており、
出雲の町全体が神様を迎える神聖な空気に包まれます。
このような神在月の風習や信仰が、
現在の「出雲大社=縁結びの神様」というイメージと結びつき、
10月には特に多くの人が出雲を訪れるようになったのです。
神々が縁を結ぶ月に、自らも良縁にあずかりたいと願うのは、
ごく自然な心でしょう。
こうして、出雲大社は一年の中でも特に10月、
旧暦の神在月に最も注目される神社となっていきました。
神無月という表現は、
一見すると神様がいなくなるという寂しい印象を与えるかもしれませんが、
実際には神々が大切な相談をするために集まっておられる時期であり、
決して神が去るというネガティブな意味ではないのです。
むしろ、
目に見えぬご縁や運命を司る神々が、
出雲において真剣に私たちの未来を考えて下さっている月だと受け止めると、
私たちの生き方にも感謝と敬いの心が育まれてくるのではないでしょうか。
日本という国が持つ八百万の神々という信仰、
その神々が一堂に会するという世界観、
そして出雲という地に込められた歴史と精神性は、
単なる観光名所ではなく、
日本人の心の深層に根付いた精神文化の象徴とも言えるでしょう。
神無月と神在月、
それぞれの意味を知った上で出雲を訪れれば、
その土地の空気の中に、
何か目には見えない温かさや包み込まれるような神聖さを
感じることができるかもしれません。
そうした心持ちで参拝することでこそ、
本当の「ご縁」というものが
自分の人生にも訪れてくるのではないでしょうか。
神様の集まる出雲の10月、私たちの願いもまた、
その神議の中で温かく受け止められているのかもしれません。