
EXECUTIVE BLOG
2025.8.11
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 原爆投下に至る話でした。
今日もこの話に続きます、、、、。
1945年の夏、
人類は歴史上初めて核兵器を実戦で使用するという重大な決断を下しました。
8月6日、広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」は
ウラン235を使ったガンバレル方式で作られ、
8月9日に長崎へ投下された「ファットマン」は
プルトニウム239を使ったインプロージョン方式で、
構造も原理もまったく異なっていました。
アメリカがなぜ同じ型を二度使わなかったのかには
戦争を一日でも早く終わらせるためという表向きの理由のほか、
二種類の兵器の実戦効果を比較し、
その後の戦略や兵器開発に役立てようという思惑も含まれていました。
マンハッタン計画は空前の規模で進められ、
ウラン型とプルトニウム型が並行して開発されました。
ニューメキシコで行われたトリニティ実験はプルトニウム型で成功しましたが、
ウラン型は設計上の確実性から実験を行わず、
そのまま実戦投入が決まりました。
ポツダム会議では、
トルーマン大統領がチャーチルやスターリンに実験成功をほのめかし、
日本が降伏しない場合は新兵器を使う意思を固めます。
日記には
「最も恐ろしい爆弾を手に入れた。我々は戦争を短くする力を持った」
と記しつつも、その破壊力への不安もにじませていました。
米軍の作戦会議では、核兵器の投下目標を選定する議論が行われました。
条件は、軍事的価値が高いこと、爆発効果を観測できる都市の規模を持つこと、
空襲被害が少なく破壊効果を純粋に評価できること、
そして心理的衝撃を与える象徴性を持つことでした。
京都は文化的中心地で心理的効果が大きいとして有力候補になりましたが、
当時のスティムソン陸軍長官が
文化財保護と戦後統治への影響を理由に強く反対し、外されました。
結果として、広島、長崎、新潟、小倉などが候補に残ります。
広島は中国地方の軍事拠点であり、大規模な兵站基地と師団司令部を擁し、
さらに市街が平坦で爆発効果を観測しやすいことから第一目標に選ばれました。
長崎は当初、小倉の代替目標でしたが、
煙幕により小倉を断念した爆撃隊が急遽進路を変えて向かったものでした。
科学者たちの間には深い葛藤がありました。
計画の中心人物オッペンハイマーはトリニティ実験成功の瞬間、
「私は死神となり、世界を滅ぼす者となった」
という古代インドの叙事詩バガヴァッド・ギーターの一節を口にし、
その表情には誇りと恐怖が入り混じっていました。
エンリコ・フェルミは爆発の威力について冗談めかして
「この爆風で何人死ぬか賭けようか」と語ったとも伝えられますが、
それは惨状への不安を隠すための皮肉でもありました。
科学者の一部は
「日本の都市ではなく無人島での実演にとどめるべきだ」
という嘆願書を提出しましたが、
軍と政治指導部は
「即座に降伏を促すには都市への投下が不可欠」として退けました。
こうして広島にはウラン型が、長崎にはプルトニウム型が落とされ、
二種類の異なる爆弾の効果は戦後の米軍報告書に詳細に記録されました。
広島では閃光と熱線、爆風で一瞬にして街が壊滅し、
十数万人が即死または後に死亡しました。
長崎では山に囲まれた地形のため爆風の広がり方は異なりましたが、
それでも数万人が命を落とし、放射線による後遺症が長く人々を苦しめました。
二つの異なる爆弾を短期間に使った事実は、
戦争という極限状況で人間がどれほど計画的かつ冷徹に行動できるかを示す一方、
その決断の重さを私たちに問いかけます。
トルーマンは戦後、
「私は戦争を終わらせ、多くの米兵と日本人の命を救ったと信じている」
と語る一方、
「これ以上使われてはならない兵器だ」とも述べています。
オッペンハイマーも後年、
大統領との面会で「私の手には血がついている」と告げ、
核廃絶を訴える立場に傾きました。
広島と長崎で生き延びた人々は、憎しみではなく
「二度と繰り返してはならない」という願いを胸に、
世界中に平和のメッセージを送り続けています。
科学技術は人類の生活を豊かにするためにこそ使われるべきで、
破壊のために使われれば未来まで傷を残します。
広島の空も長崎の空も、今は青く澄み、人々の笑顔が広がっています。
その光景こそ、人間が本来持つべき力の証であり、
戦争を終わらせたのは爆弾ではなく、
人と人とが憎しみを超えて共に生きようとする心でした。
私たちはその心を受け継ぎ、
核兵器のない未来を信じて歩み続けなければなりません。