
EXECUTIVE BLOG
2025.8.12
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 広島型原爆と長崎型原爆の話しでした
今日も 原爆投下の話しに続きます、、。
1945年の春、日本はまだ戦争を続けていましたが、
戦局は明らかにアメリカ側の優勢でした。
その中でアメリカは「マンハッタン計画」という極秘プロジェクトを進めており、
世界で初めての原子爆弾が完成に近づいていました。
爆弾を使うかどうか、使うならどこに落とすのか、
それを決めるためにアメリカでは「ターゲット委員会」という会議が開かれます。
この会議は1945年5月10日から11日にかけてロスアラモスの近くで開かれ、
陸軍航空軍や科学者たちが集まり、投下する都市の候補を議論しました。
基準は幾つかありました。
第一に、爆弾の効果を正確に測定するために、
なるべく空襲で破壊されていない都市であること。
第二に、都市の規模が大きく、軍事的にも経済的にも重要であること。
第三に、心理的な衝撃を与えられる場所であること。
この「心理的衝撃」というのは、
日本の国民や政府に強烈な打撃を与えて早く降伏させることを意味していました。
当初の候補には広島、新潟、小倉、京都、
そして東京も含まれる可能性が検討されました。
東京は言うまでもなく日本の首都で、政治・経済・文化の中心でした。
しかし、この段階で既にアメリカのB-29による大規模空襲で
市街地の大半が焼け野原になっており、
3月10日の東京大空襲では10万人近くが亡くなり、
家屋の半分以上が焼失していました。
ターゲット委員会の議事録には
「既に壊滅的な被害を受けており、原爆の効果測定の対象として適当でない」
との判断が記されています。
さらに首都を完全に破壊すると、
戦後の占領統治に必要な行政機能や象徴的中心地を失い、
政治的に不都合になる懸念もありました。
こうして東京は正式候補から外れます。
一方、京都は事情が違いました。
京都は人口約100万人、軍需工場もいくつかあり、
しかも空襲被害はほとんどありませんでした。
それに加え、古くからの都として寺社や伝統的町並みが残り、
日本人にとって精神的な象徴でもありました。
当時の米軍資料には
「京都を破壊すれば、日本人の戦意に計り知れない衝撃を与える」
との記述もあります。
つまり軍事的にも心理的にも条件を満たしており、
委員会内では「最有力候補」とされていたのです。
しかしここで大きく流れを変えた人物が現れます。
それが陸軍長官ヘンリー・スティムソンでした。
スティムソンは第一次世界大戦後の外交官時代に日本を訪れ、
京都の寺社や文化に深く感銘を受けていました。
彼は戦争が終わった後、日本とアメリカが平和的な関係を築くためには、
日本文化の象徴を無意味に破壊すべきではないと考えていました。
1945年5月30日、スティムソンはトルーマン大統領との会談で
「京都は宗教的・文化的中心であり、戦後の関係を考えても破壊すべきではない」
と強く進言します。
大統領は最初は軍事的効果を優先する意見に耳を傾けていましたが、
スティムソンの情熱的な訴えに心を動かされます。
さらにスティムソンは6月6日の会議でも改めて反対意見を述べ、
京都を候補から外すよう求めました。
彼の日記には
「私は京都を破壊のリストから外すために全力を尽くした。
文化を守ることは、勝利と同じくらい大切だ」
と記されています。
この強い意志により、
6月末までに京都は正式に候補から削除されます。
こうして空いた枠に、長崎が新たな候補として加わりました。
長崎は軍需産業の中心のひとつであり、港湾施設も重要で、
しかも空襲被害が比較的少なかったためです。
結果として、最終候補は広島、小倉、新潟、長崎の4都市となります。
この中で、新潟は距離や天候条件から最終的に外れ、
8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下されました。
もしスティムソンが動かなければ、
8月の空に向けて飛び立ったB-29が目指したのは、
もしかすると京都だったかもしれません。
東京は既に炎に包まれていたためリストから消え、
京都は一人の高官の信念によって救われたのです。
そして今、私たちはあの時破壊されずに残った京都の街並みを歩き、
寺の鐘の音を聞き、四季折々の風景を楽しむことができます。
それは偶然ではなく、
戦火の中で人間の良心が守り抜いた結果なのです。
もしあの時、東京も京都も焼き尽くされていたら、
私たちが手にしている文化や記憶の多くは永遠に失われていたでしょう。
戦争は人の命だけでなく、
長い年月をかけて育まれた心の財産までも奪います。
だからこそ、過去の選択が教えてくれるのは、
どんな時代でも人間の尊厳と文化を守る勇気を失ってはいけないということです。
原爆がもたらした惨禍は、二度と繰り返してはなりません。
あの日、候補地から外れた都市が守られたように、
これからも私たちは未来の世代に平和な街と文化を手渡す責任があります。
空に爆撃機が飛ぶ代わりに、平和の象徴である鳩が舞う世界をつくること。
それが、過去を生き延びた都市と、
そこに暮らす人々への何よりの恩返しだと思います。