
EXECUTIVE BLOG
2025.8.13
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
終戦の日が近づいてます。
昨日までは 原爆投下の話しでしたが、
原爆投下はいきなり決められたわけではなく
その前の 日本に向けたポツダム宣言の中に
その事は警告されていました、、、。
今日はこの話に続く、、、、。
1945年7月26日アメリカイギリス中国の連合国は
ポツダム宣言を発表し日本に無条件降伏を迫りました。
この最後通牒にはすぐに降伏しなければ
迅速かつ徹底的な破壊が待っているという強い警告が込められており
当時アメリカはすでに7月16日に原子爆弾の実験に成功していたため
この文言は原爆使用を示唆するものと受け止められました。
宣言の内容はすぐに日本政府に伝わり、
内閣では激しい議論が行われ外相の東郷茂徳は
この文書が日本そのものの無条件降伏ではなく
全日本軍隊の無条件降伏と書かれていることに注目し
ソ連を仲介役として和平交渉を進めるため
直ちに回答を出すべきではないと主張しました。
その結果日本政府は宣言に対してコメントをせず無視するという
黙殺の方針をとることになり、
首相の鈴木貫太郎も記者会見で、
宣言は価値のあるものではないとして黙殺すると明言しました。
当時の新聞はこれを受けて
見出しに笑止という言葉まで使い、宣言をあざけるような報道を行い、
国民の間にも降伏などあり得ないという空気が広がりました。
しかし鈴木首相は表向き強硬な姿勢を見せながらも、
心の内では終戦に向けた道を模索していました。
彼は日露戦争時に参謀としてロシアの戦力を知り尽くしており、
軍事的に日本の継戦能力が限界に近づいていることを冷静に理解していました。
また高齢で病身の身ながらも、
天皇の信任を受け国を破滅させずに戦争を終えることを
最大の使命としていました。
そのため彼はポツダム宣言を全面的に拒否したわけではなく、
ソ連を通じて有利な条件での停戦を探るための時間稼ぎとして、
黙殺を選んだ面もありました。
ところがその猶予は長くは続きません。
8月6日アメリカは広島に原子爆弾を投下し、
市街地は一瞬で壊滅し多くの市民が命を落としました。
さらに8月9日には
長崎にも原爆が落とされ、
同じ日にソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻しました。
この二重の衝撃は政府首脳に戦争継続の不可能さを突きつけましたが、
それでも一部の軍部は徹底抗戦を唱え、
本土決戦によって有利な条件を引き出せると主張しました。
鈴木首相はこうした強硬派の抵抗を抑え
終戦への道を切り開くため天皇の御前会議開催を決意することになるのです。
ここで どのように決定されて行くのか???
その話しは、、、
明日へ続く、、、。