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社長&顧問ブログ

2019.6.26

長崎での思い出話その3

高光産業株式会社 妹尾八郎です。

 

昨日からの続き、

 

長崎時代の事を書いていると 長崎の思い出がいろいろと浮かんでくるものです。

 

その中でも 涙なくしても語れない物語がありました。・

 

当時の私の先輩が住んでいる場所が 長崎市の隣の町の時津町ですが

 

そこに ある地蔵が立っていまして その話の内容が

 

涙なくしては聞けない話なんです。

 

前回書いた 唐津の増田神社に祀られている 増田巡査と同じように

当時の責任ある若者の話なんです。

 

 

それは

昭和22年9月1日午前10時ごろ、当時21歳の鬼塚道男(おにづかみちお)車掌は、

西彼杵郡時津村(現在の時津町)打坂で、乗客の生命を救おうとして殉職した話です。

 

当時の木炭バス瀬戸営業所勤務の鬼塚車掌は、

この日の朝8時、大瀬戸発長崎行の木炭バスに乗務、満員に近い客を乗せ、打坂を約30メートル上っていたのですが、

峠の頂上まであと数メートルというところで、突然、ブレーキがきかなくなり、バスはずるずると後退を始めたのです

 

当時の打坂は急こう配で片側は10メートル以上の深い崖がひかえ、

運転者仲間に”地獄坂”と恐れられていた坂だったのです。

 

鬼塚車掌はすぐにバスを飛び降り、道わきの大きな石を車輪の下に入れるのですが、

加速がついていたバスは石をはねのけ、崖まであと一歩と迫ってきたのです、

 

このままでは バスは乗客を乗せたまま崖下に転落してしいます。

 

運転手も必死にブレーキを踏むのですが バスは止まりません。

 

もうこのまま 乗客もろとも崖下に転落をすると観念していた時、

バスが寸前のところで止まったのです。

 

運転手は 鬼塚車掌が木片か大きな石を車止めに活用して

止めてくれたと思いました。

 

それで 鬼塚車掌の名前を呼ぶのですが

彼からの返事はありません

 

車を降りて 見に行ってみるのですが

彼の姿は見当たりません

 

なんと

 

鬼塚車掌は車輪の下敷きになっていたのです。

 

木片も大きな石も効果なく

鬼塚車掌はとっさに後部車輪の下に飛び込み、自らの体を輪止めにして

バスを止めたのでした。

 

お陰で、バスは間一髪のところでストップして、乗客30数人は危うく難をのがれたのですが、

鬼塚車掌は病院に運ばれた直後に息を引き取ったのでした。

 

 

敗戦後の荒廃した社会の中、自らの命を犠牲にして乗客を救った鬼塚車掌の殉職は人々に大きな感銘を与えたました。

 

この勇気のある鬼塚車掌の行為をたたえるとともに

交通事故の絶滅を祈って、

昭和49年10月、事故現場近くに地蔵尊が建立され、

鬼塚さんの命日には今も供養祭が行われているそうです。

 

増田巡査も鬼塚車掌も 当時20代の若者です。

 

自分の命を引き換えにしてまでも 人の命を職務を通して守ろうとした

勇気を忘れていけないと 当時同じ年くらいだった私は強く感じました。

今でも 彼らの冥福を祈っております。

 

 

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