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社長&顧問ブログ

2025.8.20

戦後復興に向けて

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 終戦直後の話しでした。

 

今日は終戦の混乱を乗り越えた二人の首相の話についてに進みます、、、、。

 

1945年8月15日正午、玉音放送が全国に流れ、

日本国民はついに敗戦の事実を知らされました。

ラジオの前で涙を流す者、呆然と立ち尽くす者、悔しさを噛みしめる兵士たち。

戦争は終わったといっても、そこに広がっていたのは決して安堵ではなく、

深い虚脱と不安でした。

 

国土は焼け野原となり、都市は瓦礫に覆われ、

飢えと病に苦しむ人々で溢れていました。

その上、明日からは占領軍がやって来る――果たして日本はどうなるのか、

誰にも確かな答えはなかったのです。

 

そんな混迷の中で、敗戦直後の政権を担ったのが東久邇宮稔彦王でした。

皇族として初めて、そして唯一の総理大臣。

 

彼が首相に指名されたのは、

天皇の「聖断」を国民に納得させるためでもありました。

終戦直後の日本では、

まだ徹底抗戦を主張する軍人や、敗北を受け入れられない国民が多くいました。

とくに若い将校の一部はクーデターを企て、玉音放送を阻止しようとしたほどです。

 

もしこの動きが広がっていたら、

日本は国内で血を流す「内戦」に突入していたかもしれません。

その危うい状況を収めるには、

天皇に最も近い存在である皇族が政府を率いることが必要と判断されたのです。

 

東久邇宮はわずか54日間の短命内閣でしたが、

その存在は極めて重い意味を持ちました。

 

彼が発した「一億総ざんげ」という言葉は、

敗戦直後の国民に大きな衝撃を与えました。

人々は心のどこかで「軍部や指導者だけが悪かった」と考えたかった。

しかし東久邇宮は、

国民一人ひとりが戦争に協力し、加担したのだと静かに指摘しました。

 

これは責任を分散させる曖昧な言葉だと批判もされましたが、

当時としては国民に

「過去と向き合い、前を向く覚悟」を促す強いメッセージでもあったのです。

 

また、東久邇宮の内閣は、占領軍との最初の接触を担いました。

8月30日、

厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサー元帥を迎え入れる際、

最初に直面した課題は

「日本軍をいかに速やかに武装解除するか」でした。

 

まだ数百万の兵士が国内外に存在しており、

武器を持ったまま帰国する彼らが暴発すれば大混乱は避けられません。

 

東久邇宮は政府として徹底した命令を出し、各地の部隊に武装解除を指示しました。

もしこの対応が遅れていれば、

敗戦後に「第二の内乱」が起きていた可能性は高く、

占領政策そのものが大きく揺らいでいたでしょう

 

東久邇宮は、まさに「敗戦から占領へ」という難しい橋渡しを、

静かに、しかし確実に果たしたのです。

 

しかし、民主化を進める占領軍にとって、

皇族が首相を務めることは長く続けられるものではありませんでした。

東久邇宮は潔く退陣し、その後を継いだのが幣原喜重郎でした。

 

幣原喜重郎は、戦前から国際協調を掲げた外交官でした。

第一次世界大戦後の国際連盟時代、ワシントン会議での軍縮外交、

そして日中関係改善への努力。

彼の歩みは常に「戦争を避ける外交」でした。

 

しかし軍部の台頭によってその声は押し潰され、

彼は政界の片隅へと追いやられていきました。

敗戦直後、再び彼が首相に就任したことは、

歴史の皮肉であり、また必然でもあったのです。

国際的な信頼を回復し、平和国家への道を探るには、

幣原ほど適任な人物はいませんでした。

 

幣原内閣が直面した最大の課題は、新しい憲法の制定でした。

GHQは当初、日本政府自身に改正案を作らせましたが、

それは従来の明治憲法の枠を大きく残したもので、

マッカーサーは「これでは不十分」と突き返しました。

 

そこでGHQが独自に草案を示し、日本政府に受け入れを迫ります。

ここで幣原は、徹底的に争うのではなく、

むしろ大胆に受け入れる道を選びました。

彼は「この敗戦の現実を直視し、再び戦争をしない国として生まれ変わるしかない」

と考えたのです。

 

特に注目されるのが憲法第9条です。

「戦争の放棄」「戦力の不保持」という前例のない条文は、

当時の国民にとっても衝撃的でした。

 

後年、幣原自身が

「戦争放棄の発想は私がマッカーサーに提案したものだ」と語っています。

その真偽については歴史家の間で議論が続いていますが、

少なくとも彼がこの条文を受け入れる強い意志を持っていたのは事実です。

 

敗戦で国土を荒廃させ、

二度と立ち上がれないかもしれない日本にとって、

戦争を放棄することこそが唯一の生き残る道だ――幣原はそう信じていたのです。

 

幣原内閣の改革は憲法だけにとどまりませんでした。

農地改革によって地主制を解体し、農民が自らの土地を持つようになりました。

これは農村の不満を和らげ、社会の安定をもたらす決定的な要因となりました。

 

また、婦人参政権の導入により、

1946年4月の総選挙では女性が初めて投票権を行使し、

39人もの女性議員が誕生しました。

まさに社会の隅々にまで「新しい時代の息吹」が届いた瞬間でした。

 

その一方で、幣原内閣は厳しい現実とも向き合わねばなりませんでした。

戦後のインフレ、食糧不足、復員兵や引揚者の増加による社会不安

 

。東京の街頭では飢えた子どもたちが靴磨きや闇市で生き延び、

地方では米を求めて都会から農村へ人々が列をなしました。

幣原自身も

「民主化は急務であるが、まず国民を飢えさせないことが第一」と語り、

食糧確保に奔走しました。

マッカーサーに直接支援を求め、

米国からの食糧援助が実現したのも幣原の尽力によるところが大きいのです。

 

こうして見れば、東久邇宮と幣原喜重郎は、

それぞれが短い期間ながらも決定的な役割を果たしたことが分かります。

東久邇宮は皇族としての権威を背景に、敗戦を国民に受け入れさせ、

軍の暴発を防ぎました。

幣原は国際協調の経験を生かし、憲法改正や社会改革を受け入れることで、

日本が「戦争を放棄する平和国家」へと生まれ変わる道を切り開きました。

その道の先にこそ、吉田茂による本格的な経済復興があったのです。

 

もし東久邇宮がいなければ、

敗戦の受け入れは混乱し、内乱が起こっていたかもしれません。

 

もし幣原がいなければ、

憲法第9条も農地改革も婦人参政権も実現せず、

日本は再び軍国主義の影に怯える国になっていたかもしれません。

二人のリーダーシップは、

日本が「過去と決別し、未来へ進む」ために不可欠なものでした。

 

そして今、私たちが戦後80年近くを

「戦争をしない国」として歩んできたのは、

彼らが敗戦直後の絶望の中でなお平和を信じ、

未来を切り開いたからにほかなりません。

 

焦土に立ってもなお、人々に希望を見せ、世界に向かって

「日本は変わる」と宣言した彼らの勇気と決断を、

私たちは決して忘れてはならないのだと思います。

 

 

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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