
EXECUTIVE BLOG
2025.8.22
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 戦後の復員の話しでした。
今日は その後の話しに進みます、、、
1945年8月15日、
日本は敗戦を迎え玉音放送で天皇自ら国民に戦争終結を伝えましたが、
戦争が終わったからといって軍がすぐに消滅したわけではなく、
陸軍省や海軍省はしばらく残され敗戦処理という大仕事を担っていました。
数百万に及ぶ将兵を復員させ、海外の戦地や占領地から軍人や民間人を帰還させ、
さらに大量の武器や軍需物資を整理するという課題が
山のように残っていたためです。
東久邇宮内閣や幣原内閣の時代にも陸軍大臣や海軍大臣は存在し、
復員や武装解除を指揮しました。
しかし連合国軍総司令部の指令により
1945年12月1日に陸軍省と海軍省は正式に廃止され、
代わって第一復員省と第二復員省が設けられ、
陸軍関係と海軍関係の復員業務を分担しました。
ここで「復員」という言葉は単なる軍の解体ではなく、
兵士をきちんと郷里に戻し社会に受け入れる過程を意味し、
日本社会を安定させるために不可欠の事業でした。
港や駅では復員兵を迎える人々の姿があり、
軍服のまま痩せこけた兵士が故郷に戻る光景は戦後日本の象徴となりました。
南方の戦地からマラリアに苦しみながら帰還した者、
飢えと病で仲間を失いながら帰ってきた者、
シベリアに抑留され数年後にやっと帰還する者もいました。
彼らが汽車に乗って故郷へ向かう道すがら、
涙ながらに再会する家族もいれば、
家や土地を焼かれ生活基盤を失って呆然とする家族も少なくありませんでした。
海外からの民間人の引揚げも大問題でした。
満州や朝鮮、南洋からは数百万人が命からがら日本に戻りました。
引揚船は超満員で、子供を抱えた母親や老人が狭い船室で息を潜めて過ごし、
港に着いたときには荷物も財産もほとんど失っていました。
帰っても家はなく、食料も乏しく、
彼らは畳一枚の空間や親戚の家の一角に身を寄せながら再出発を余儀なくされました。
復員兵や引揚者が直面したのは戦地での苦労だけではなく、
その後の生活でした。
戦争によって産業は破壊され、職場は消え、帰ってきた兵士の多くは仕事がなく、
街には失業者が溢れました。
特に都市では闇市が乱立し、闇米や衣料が高値で取引され、
復員兵や引揚者はその日暮らしの糧を求めて闇市に足を運ぶしかありませんでした。
復員した若者の中にはまともな職に就けず、
闇市での売り子や荷運びで日銭を稼ぐ者も多くいました。
中には仕事を求めて地方へ出稼ぎに行く者もいましたが、
農村でも余裕はなく、逆に農民が都市へ米を持ち込み
物々交換をする姿も見られました。
こうした社会不安を抑えるため、
第一復員省と第二復員省はやがて統合され、
1946年6月15日に復員庁が設置されました。
復員庁は内閣直属の外局として、旧軍人や軍属の復員、海外引揚者の受け入れ、
シベリア抑留者の対応、戦没者遺族への援護を一手に引き受けました。
この時期、日本社会は
「復員・引揚ラッシュ」と呼ばれるほど大量の人々が帰国し、
その数は軍人軍属だけで約600万人、
民間人を含めると数百万人に及びました。
駅や港では再会を喜ぶ光景と同時に、
遺骨だけが戻ってきて家族が泣き崩れる場面もありました。
復員庁は帰還者に最低限の援護を行いましたが、
国家財政も破綻しており、
生活は依然として苦しく、人々は闇市や配給に頼って生き延びました。
復員庁は約2年でその役割を終え、1948年1月1日に廃止され、
業務は厚生省引揚援護局に引き継がれました。
ここで初めて復員業務は軍事色を完全に脱し、
福祉行政の一環として整理されました。
その後も厚生省は戦没者遺族の援護やシベリア抑留帰還者の対応、
遺骨収集事業を続け、現在の厚生労働省にまでその系譜が受け継がれています。
つまり終戦からの数年間、
軍の廃止と復員省、復員庁、厚生省への移行は
単なる行政の移り変わりではなく、
焦土と混乱の中で国を立て直すための重要な仕組みでした。
復員兵の痩せた姿、引揚者の失意、闇市で必死に食糧を求める人々の姿を経て、
日本は軍事から福祉へ、戦争から平和へと大きく舵を切ることができたのです。
そして今日私たちが「戦後」と呼ぶ時代の始まりは、
まさにこうした復員と引揚げの苦難の道のりの中にあったのです。