
EXECUTIVE BLOG
2025.8.27
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは
戦後の闇市から令和の米騒動の話しでした。
今日は 話をまた戦後に戻して
占領軍最高司令官の マッカーサーの占領政策の話に進みます、、、。
太平洋戦争が終わり、日本は焼け野原のようになり、
人々は食べ物もなく不安の中で暮らしていました。
そこにやって来たのがマッカーサー元帥率いるGHQで、
彼はこれからの日本をどう立て直すかという大きな課題に取り組みました。
占領政策の柱は「非軍事化」と「民主化」で、
日本を二度と戦争をしない国に変え、
国民が自由に生きられる社会をつくろうとしたのです。
非軍事化を象徴する出来事の一つが、
1945年9月27日の昭和天皇とマッカーサーの会見でした。
天皇は正装で姿勢を正し、マッカーサーは軍服姿で腰に手を当てて立っていました。
その写真は新聞に載り、国民に大きな衝撃を与えました。
天皇が敗戦の責任を背負い表に立ち、
マッカーサーがその姿を受け止めて象徴天皇制を守ると決めた瞬間でもあったのです。
軍事組織の解体も急速に進み、数百万人の復員兵が列車や船で帰ってきました。
広島や舞鶴の港には軍服を着た兵士が長い列をなし、
故郷へ帰る喜びと同時に失業や食糧不足の現実に直面しました。
そんな中、マッカーサーはアメリカに食糧援助を求め、
小麦粉や脱脂粉乳が送られてきました。
学校ではパンやスープの給食が始まり、
子どもたちは戦後初めて温かい食事を口にすることができました。
この「アメリカのパンの味」は多くの人の記憶に残っています。
民主化の中で大きな出来事は女性の参政権でした。
1946年4月の総選挙では女性が初めて投票し、39人の女性議員が誕生しました。
新聞は「新しい時代の幕開け」と報じ、
戦前には考えられなかった光景に人々は驚きました。
教育も変わり、教科書の軍国主義的な部分は黒く塗られ
「墨塗り教科書」と呼ばれました。
子どもたちは黒い部分を不思議そうに見つめ、
先生が「ここはもう読まなくてよい」と伝える姿が、
戦後の新しい教育を象徴していました。
農地改革も国を大きく変えました。
地主の土地を国が買い取り、小作農に安く分け与える制度で、
多くの農民が自分の畑を持つことができました。
土地を手にした農民は涙を流して喜び、農村は新しい活力を取り戻しました。
言論の自由も広がりました。戦時中は厳しい検閲がありましたが、
占領下では民主主義を広めるため自由が奨励されたのです。
ラジオ番組「真相はこうだ」では人権や民主主義が紹介され、
人々は熱心に耳を傾けました。
娯楽も解禁され、ジャズやダンスが街に戻り、
銀座や大阪のダンスホールは若者で賑わいました。
戦争中の暗い雰囲気から一転して、新しい自由の象徴となったのです。
しかし、占領政策には苦しい側面もありました。
東京裁判で東条英機らが裁かれ処刑されることは、
人々に複雑な感情をもたらしました。
戦争指導者への怒りと、
敗戦国として裁かれる屈辱が入り混じっていたのです。
また、食糧不足の中で闇市が各地に広がり、
進駐軍から流れた物資が高値で売られました。
庶民は生活のためにそこに頼らざるを得ず、
闇市は人々の命を支える場でありながら、
社会の秩序を乱す存在でもありました。
マッカーサーは日本人を「民主主義の生徒」と見なし、
自立できるように導こうとしました。
彼はある日、皇居から本部に戻る途中で泣いている子どもを見て、
さらに食糧援助を求めたと伝えられています。
単なる占領者ではなく、人間味ある姿が人々に記憶されている理由です。
やがて冷戦が激しくなると、アメリカは日本を反共の拠点とするため、
占領政策の方針を少し変えました。
初めは徹底した民主化を進めていましたが、
その後は労働運動を抑え、再軍備の議論も始まったのです。
1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、
1952年には占領が終わりました。
その間に生まれた憲法、教育制度、農地改革、女性の地位向上は、
今日の日本社会の基盤となっています。
マッカーサーはアメリカ議会で
「日本人は驚くべき学習能力を持つ民族です」と語りました。
敗戦から短い年月で立ち直る日本の姿に、彼自身も深い感銘を受けたのでしょう。
こうしてマッカーサーの占領政策は、
日本を戦争の国から平和の国へと変える大きなきっかけとなり、
その功績も課題も含めて今も語り継がれているのです。