
EXECUTIVE BLOG
2025.8.28
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは マッカーサーの占領政策の話しでした。
今日は マッカサーと天皇陛下の面談の話しに続きます、、、。
敗戦直後、日本政府が直面していた最大の課題は
天皇の戦争責任と天皇制の存続でした。
ポツダム宣言受諾の際にも国体護持が条件となり、
もし昭和天皇が戦犯として訴追され退位させられるような事態になれば、
日本社会は統治の柱を失い混乱は避けられないと考えられていました。
昭和天皇自身もそのことを十分理解しており、
自らの責任を明らかにして国民の犠牲を減らすためならば、
身柄を差し出してもよいという覚悟を抱いていたと伝えられます。
会見の場に臨んだ天皇は正装のモーニング姿でした。
それは主権者として最後まで責任を取る姿勢を示すものでした。
当時の日本政府はこの会見に向けて細心の準備を重ねていました。
天皇の発言は通訳を通じてそのまま記録される可能性があり、
言葉の一つひとつが占領政策の行方を左右すると考えられたからです。
外務省や宮内省の関係者は
「天皇は国民を思いやるお言葉を述べられるだろうが、万が一にも誤解されてはならない」として、想定問答や発言の方向性を整理しました。
側近の木戸幸一らは
「天皇が自己保身ではなく国民救済を第一に願っていることを、
アメリカ側に理解してもらうことが何より重要」と考え、
衣装や所作にまで配慮しました。
モーニング姿はその一環であり、
敗戦国の君主として卑屈に見せるのではなく、
最後まで威厳を保ちつつ責任を果たすという決意の表れでした。
一方、会見前のマッカーサーは天皇を軍国主義の象徴と見ていました。
アメリカ国内や連合国諸国では天皇を戦犯として裁けという声が強く、
新聞や議会でも「ヒトラーやムッソリーニと同様に裁かれるべきだ」
との論調が繰り返されていました。
彼自身も当初は天皇の存在が占領政策において不安要素になると考えていたのです。
しかし同時に、
旧体制を一気に否定すれば日本が共産化に傾く危険があることも理解していました。
中国やソ連が影響力を拡大しつつある中で、
天皇を排除すれば日本の社会は瓦解し、
共産主義勢力が台頭しかねないという現実的な懸念があったのです。
そこで彼は天皇をどう扱うかが日本統治の成否を決めると考え、
まずは直接会って人物を見極めようとしていたのです。
会見の設定は容易ではなく、
アメリカ国内の一部には
「会うこと自体が天皇を特別扱いする誤ったメッセージになる」
との批判もありましたが、マッカーサーは自らの判断で会談に踏み切りました。
会見は通訳を交えて30分ほど行われました。
昭和天皇は冒頭から
「私は国民をして戦争に導き、遂に敗北せしめた責任を一身に負っております。
私の身はいかようにも処置していただきたい。
その代わり日本国民が困窮することのないようお願い申し上げます」
と述べられたと伝えられます。
これは天皇として国民を救うためなら自分はどうなっても構わないという、
文字通りの首を差し出す覚悟の表明でした。
自らを救済してほしいとは一言も述べず、ただ国民の安寧を訴えたのです。
この瞬間、マッカーサーは大きな衝撃を受けました。
多くの戦争指導者が責任を免れようと弁解する中で、
昭和天皇は一切自己弁護をせず、全責任を引き受ける姿勢を見せたからです。
マッカーサーは後に回想録で
「私は彼の言葉に深く心を打たれた。これは真の紳士であり、勇気ある人物であった。
あの時ほど、ある人間を深く尊敬したことはない」
と記しています。
この会見を境に、
マッカーサーは天皇こそが日本統治に欠かせない精神的支柱だと確信し、
以後は天皇を守る政策に転じていきました。
彼が一貫して天皇の戦犯訴追を阻止し、
象徴天皇制を温存する方向に舵を切ったのは、
この時の体験が決定的な意味を持っていたのです。
彼はワシントンからの訴追圧力を抑え込み、連合国の意見を調整しながら、
天皇を平和的再建の象徴に据える路線を固めていきました。
会見後、この出来事はすぐには公開されませんでしたが、
やがて有名な一枚の写真が世に出ます。
ラフな軍服姿で腕を腰に当てたマッカーサーと、
正装の天皇が並んで立つ姿は国民に大きな衝撃を与えました。
敗戦直後の人々は
「これで天皇は無事でいられるのか」「アメリカは天皇を守るつもりなのか」
と様々な思いを抱きました。
新聞各紙はこの会見を大きく報じ、
国民は安心と戸惑いの入り交じった感情を抱きました。
朝日新聞や毎日新聞は写真を一面に掲載し、
国民は占領下で初めて天皇の姿を公に見ることになりました。
「敗戦責任を自ら引き受けた」という情報は人々の心を打ち、
天皇の存在が戦後の国民統合の象徴として再認識される契機となったのです。
アメリカ国内でも新聞や雑誌がこの会見を取り上げました。
当初「戦犯として裁くべきだ」と主張していた一部世論は、
マッカーサーの評価と合わせて次第に変化していきました。
天皇が自己保身ではなく国民救済を訴えたという事実は、
多くのアメリカ国民に
「この人物は独裁者ではなく、国家の象徴として利用する価値がある」
という印象を与えました。
タイム誌などはマッカーサーの判断を高く評価し、
占領政策における柔軟さと現実主義を賞賛しました。
もちろん批判も残りましたが、会見以降は
「天皇を利用して日本を安定させる」
という方向性が国際的にも受け入れられていったのです。
会見前のマッカーサーは天皇をどう扱うか迷っていました。
会見の天皇は国民のためなら自らを犠牲にする覚悟を示しました。
そして会見後のマッカーサーは天皇こそが日本を安定させる鍵と確信したのです。
この劇的な変化が日本の戦後史を大きく方向づけました。
有名な写真はこの歴史的な緊張と決断を象徴する一枚として今に残り、
天皇制が存続し象徴天皇制へと移行した裏側には、
このたった30分の会談があったのです。