
EXECUTIVE BLOG
2025.9.5
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは A級戦犯の罪状などの話しでした。
今日は この裁判が 復讐劇であるのでは? と思わざるを得ない
処刑迄の 日程の組み方についての話に 進みます、、、。
太平洋戦争に敗れた日本は、1945年8月15日に玉音放送を通じて降伏を宣言しました。その瞬間から、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、
あらゆる政治・社会の制度がその指導のもとで再編されていきました。
占領政策の大きな柱の一つが、戦争指導者たちの責任追及、すなわち戦犯の裁きでした。
戦争の惨禍に疲弊しきった国民にとっても、
「誰がこの戦争を始めたのか」「なぜ自分たちがこんな苦しみに追い込まれたのか」
という問いは切実でしたが、その裁きの進められ方は、
日本人の心に忘れがたい屈辱を刻むものでした。
A級戦犯の逮捕は降伏からわずか1か月も経たない1945年9月11日に開始されました。東久邇宮内閣のもとで重光葵や木戸幸一といった政界の重鎮が最初に拘束され、
国民は新聞でその事実を知ることになりました。
さらに、9月2日にミズーリ号上で降伏文書に署名した梅津美治郎をはじめ、
閣僚経験者や軍の指導層が次々に逮捕されていきました。
10月13日には元首相・東条英機が自宅で拳銃自殺を図りました。
頭を撃ち抜かれ瀕死となりながら一命を取り留め、
そのまま巣鴨プリズンへ収監された出来事は、国民に強烈な印象を与えました。
戦争の最高責任者が命を絶とうとしたものの生かされ、屈辱的に法廷へ立たされる、
その姿を通じて国民は「日本が完全に敗れた」という事実を思い知らされたのです。
その後、1946年4月29日、昭和天皇の誕生日である天長節の日に、
東条を含む28名が正式に起訴されました。
なぜこの日を選んだのか。
表向きには単なる手続きの都合と説明されるかもしれませんが、
国民にとって祝うべき日に、
国家の指導者たちが「戦犯」として告発されるという構図は、
どう見ても偶然ではありませんでした。
まるで「あなた方の祝祭の日は、指導者が罪人となる日だ」
と突き付けるかのような演出でした。
国民は祝日でありながら重苦しい新聞記事に目を落とし、
敗戦の現実と向き合わされました。
祝うべき天長節が「屈辱の日」へと変質させられたのです。
東京裁判はその直後の5月3日に開廷しました。
連合国11か国から判事が集まり、前例のない大規模裁判が始まりました。
国民は新聞を通じてその様子を逐一知らされ、
東条英機が「全責任は自分にある」と述べた場面や、
弁護側が「事後法の適用は国際法違反だ」と主張する姿も報じられました。
しかし、裁判は延々と続き、庶民にとっては食糧難やインフレの方が切実な問題でした。
国民の関心は次第に薄れ、法廷で何が語られているのかよりも、
明日の米や味噌が手に入るかどうかの方が大事だったのです。
ところが1948年11月12日、判決の日になると再び世の中は騒然としました。
新聞は号外を出して速報し、ラジオも繰り返し報じました。
結果は、東条をはじめ7名が死刑、
16名が終身刑や有期刑、残りは無罪というものでした。
国民の反応は二分されました。
戦地で家族を失った人々は「当然の報いだ」と声を上げました。
一方で
「敗戦の責任を一部の指導者だけに押し付けるのは不公平だ」
と感じる人々も多く、
東条らを英雄視する声すらありました。
紙面は淡々と結果を伝えるものの、
行間からは社会の分裂と苦い感情がにじみ出ていました。
そして、最も衝撃的だったのが死刑執行の日です。
1948年12月23日未明、
巣鴨プリズンにおいて7名のA級戦犯が絞首刑に処されました。
この日付こそが、国民に深い屈辱を残しました。
12月23日は当時の皇太子・明仁親王の15歳の誕生日でした。
未来の日本を担う存在を祝うはずの日に、あえて死刑を行ったのです。
もし昭和天皇の誕生日に処刑すれば、あまりに露骨で反発を招く恐れがありました。
そこで彼らは皇太子の誕生日を選び、
「未来への希望の日に、過去の責任を重ね合わせる」
という残酷な演出を仕組んだのです。
処刑は深夜から未明にかけて秘密裏に進められました。
翌日、新聞は「七名の刑執行」と簡潔に報じましたが、
その背後には占領軍の統制と、日本人記者たちの複雑な感情が隠れていました。
記事はあえて淡々とした文面でしたが、
読み手はそこに「割り切れぬ思い」を感じ取ったことでしょう。
国民の反応もまた複雑でした。
戦争で家族を失った人々の中には
「ようやく区切りがついた」と語る人もいましたが、
一方で「なぜこの日に」と驚きと屈辱を口にする人も少なくありませんでした。
「皇太子のお祝いの日に忌まわしい処刑を重ねるとは、あまりに酷い」
との声は公には出せずとも、ひそかに国中に広がりました。
誰がこの日付を決めたのか、公式には明らかにされていません。
しかし占領政策を主導したのはマッカーサーであり、
実務を担った米軍当局や国際検察局の判断であったことは間違いありません。
GHQ内部には日本文化や皇室制度に詳しい専門家が多く、
日付に象徴的意味を込めることは十分可能でした。
つまり、これは単なる偶然ではなく、
周到に計算された心理的支配の一環だったのです。
こうして振り返れば、A級戦犯の逮捕から処刑までの節目は、
いずれも日本人に特別な意味を持つ日付に重ねられていました。
1945年9月11日の逮捕開始、1946年4月29日の起訴、1948年11月12日の判決、
そして同年12月23日の処刑。
どれも日本人の心に強烈な印象を残す日付でした。
それは偶然の重なりではなく、
敗戦国を精神的に従属させるための心理戦だったのです。
国民にとって、これらの日付の選び方は忘れがたい屈辱でした。
歴史を学ぶ上で直視すべき事実であり、
「司法の名を借りた政治的演出」
がいかに人々の心に長く影を落としたかを理解しなければなりません。
皇太子の誕生日に合わせて行われた処刑は、
未来の象徴と過去の責任を重ねるという残酷な仕打ちでした。
その記憶は戦後日本社会に長く影を落とし、
今もなお「なんと酷い仕打ちだったのか」という思いを呼び起こすのです。