
EXECUTIVE BLOG
2025.9.10
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 天皇陛下は戦前までは現人神だったと言う話でした。
今日は その天皇が人間宣言を行い象徴天皇になる話に進みます、、、。
昭和二十一年の人間宣言を経て、日本は大きな制度改革に向かいました。
敗戦によって従来の体制はすべて解体され、
国民主権を基盤とする新しい憲法の制定が進められました。
その中で最大の焦点の一つが天皇の地位をどう定めるかという問題でした。
戦前の大日本帝国憲法において天皇は統治権を総攬する存在であり、
立法行政司法すべての源泉であるとされました。
条文には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と明記され、
天皇の権威は現人神としての性格と結びつけられていました。
この仕組みのもとで天皇の名において戦争が遂行され、
国民は命を捧げることを当然とされました。
しかし敗戦を経てその体制は根底から見直され、
民主主義に基づく新しい憲法の中で天皇の位置づけを再定義する必要があったのです。
ここで生まれたのが「象徴天皇制」という全く新しい枠組みでした。
日本国憲法第一条には「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と定められました。
つまり天皇はもはや国家権力を握る存在ではなく、
政治から切り離された象徴としての役割を持つことになったのです。
この条文は世界的にも独特で、
他国の立憲君主制の王や女王が持つ一定の統治権限さえも否定し、
完全に政治的権力を持たない存在として天皇を位置づけました。
なぜこのような形になったのかといえば、二つの事情がありました。
第一にGHQの強い意向です。
連合国は天皇制を廃止するか維持するかで意見が割れていましたが、
マッカーサーは天皇を温存することが統治の安定につながると考えました。
そのため天皇を戦犯として裁くことは避けつつ、神格と権力を剥ぎ取り、
象徴としてのみ存続させることを選んだのです。
第二に日本国民自身の願いもありました。
敗戦であらゆる価値が崩壊する中で、
天皇の存在だけは国民の精神的支えとして残してほしいという声が強くありました。
もし天皇制が完全に廃止されていたなら、
復興の途上で人々の心はさらに不安定になり、社会が分裂していた可能性もあります。
こうした国内外の要請が重なって、象徴天皇制が生まれたのです。
象徴天皇制の核心は
「主権は国民にあり、天皇はその国民統合の象徴である」という点にあります。
戦前は天皇が国家の中心であり、国民は天皇に従属する存在とされていました。
しかし戦後はその関係が逆転し、
天皇の存在は国民の総意によって支えられるものとされました。
これは人間宣言で語られた
「天皇と国民は神話や伝説ではなく信頼と敬愛によって結ばれる」という思想が、
制度として結実した形でした。
では象徴とは何かといえば、それは目に見える権力や命令ではなく、
国民が共に共有する精神的な拠り所ということです。
天皇が国民の前に立つことで、人々は自分たちが一つの共同体であることを実感し、
そこに安心感と一体感を得るのです。
戦後の巡幸で昭和天皇が焼け跡の街や農村を訪れ、
国民と握手を交わした姿はまさに象徴としての役割を示すものでした。
政治的権力は一切持たないけれど、存在そのものが国民を励まし、
統合する力を持っていたのです。
象徴天皇制はまた、天皇を「政治から切り離す」ことを徹底しました。
憲法第四条には
「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」
と明記され、
天皇が行う公務は内閣の助言と承認に基づく形式的なものとされました。
法律の公布や国会の召集、外国大使の接受などは天皇の名で行われますが、
実際の意思決定はすべて内閣に属します。
これは天皇の行為に政治的責任が及ばないようにするためであり、
戦前のように天皇の名で戦争が行われることを防ぐ仕組みでもありました。
象徴天皇制は日本国憲法とともに国民に受け入れられていきましたが、
当初はまだ戸惑いもありました。
戦前の教育を受けた世代にとって、
天皇を「ただの象徴」として理解するのは容易ではありませんでした。
しかし昭和天皇が全国を巡幸し、国民と目線を合わせて寄り添う姿を示すことで、
徐々に象徴としての天皇像が実感を伴って広まっていきました。
国民は天皇を神として崇めるのではなく、人として敬愛し、
共に生きる存在として受け止めるようになっていったのです。
戦後の日本において象徴天皇制は大きな役割を果たしました。
敗戦の廃墟から立ち上がる国民にとって、天皇の存在は希望と統合の象徴となりました。
高度経済成長を経て社会が豊かになっても、
その存在は国家と国民を結びつける精神的な支柱であり続けました。
そして平成、令和へと時代が移る中で、
象徴としての天皇像はさらに国民に寄り添う形へと発展していきました。
昭和天皇の巡幸、平成の天皇の慰霊と平和への祈り、令和の天皇の災害被災地訪問など、
すべて象徴としての役割を体現する行為でした。
象徴天皇制は戦後日本の民主主義と平和主義の中で独自の発展を遂げ、
今日に至っています。
つまり人間宣言は象徴天皇制への第一歩であり、
その後の憲法制定によって制度として確立し、
巡幸などの実践を通して国民に受け入れられていったのです。
現人神から人間へ、そして象徴へという流れは、
日本人の精神史における大きな変革であり、
敗戦から立ち上がる過程で不可欠のものとなりました。
現代の私たちが天皇を
「権力を持たないが国民と共にある象徴」として自然に理解できるのは、
この象徴天皇制が戦後八十年近くをかけて根付いた結果であり、
その始まりは人間宣言にあったのです。