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2025.9.12

八瀬童子

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 人間宣言をされた昭和天皇の巡幸の話しでした。

激動の時代を生きた昭和も 天皇の崩御で幕を閉じます。

 

実は 天皇の棺を担ぐための一族が居たのだと言う事実を知らない方が多いようなので

今日は この話に進みます、、、

 

天皇陛下が崩御された際に、

その御棺を担ぐという重要な役目を果たしてきた一族がいます。

その名は「八瀬童子」です。

 

京都の北、比叡山の麓にある八瀬の里に住んできた人々で、

古代から特別な存在として宮中と結びつき、独自の役割を担ってきました。

 

昭和天皇の大喪の礼では皇宮警察が御棺を担ぎましたが、

それ以前の大正天皇や明治天皇の大喪の礼では、

八瀬童子たちがその大役を務めたことが記録に残っています。

彼らの歴史をたどると、日本の宮廷文化や社会制度の深層に触れることができます。

 

八瀬童子の起源は古代にさかのぼります。

彼らは「陵戸」と呼ばれる、天皇や皇族の陵墓を守り、

葬送に関わる人々の子孫とされます。

 

陵戸は飛鳥時代から存在し、

天皇の葬儀や御陵の管理を行うために置かれた特別な集団でした。

八瀬の人々はその陵戸の一部が移り住み、

やがて「八瀬童子」と呼ばれるようになったのです。

 

童子という言葉には、単なる子供の意味ではなく、

特定の宗教的・祭祀的役割を持った人々という意味が込められていました。

 

彼らの暮らす八瀬の里は、山あいの小さな地域で、

清らかな水と豊かな自然に囲まれていました。

 

ここで生活する八瀬童子は、農業や林業を営みながら、

同時に宮中に仕える特別な任務を果たしてきました

。彼らは「童子頭」を中心に組織化され、代々その役割を継承していきます。

 

普通の農民と異なり、

彼らには「御棺を担ぐ」という非常に特殊な役目が課せられていたため、

宮中からも一定の保護や恩典を受けていました。

 

天皇の葬儀は、古代から国家的儀式の中でも最も重んじられるものでした。

その中心となるのが御棺を奉じる役目であり、

これは不浄を忌む観念から限られた人々しか許されませんでした。

 

八瀬童子はその大任を担う資格を持った唯一の集団であり、

御棺を運ぶことは彼らの誇りであり、また宿命でもあったのです。

 

御棺を担ぐ際には、白装束に身を包み、清浄を保つための厳しい作法を守りました。

これは単なる肉体労働ではなく、

儀礼的・宗教的な意味を持つ神聖な行為だったのです。

 

八瀬童子はまた、宮中から「童子の特権」と呼ばれる恩典を与えられていました。

 

その中で有名なのが「頭の免税」です。童子頭を務める家には租税の免除が与えられ、

その代わりに御棺奉仕などの重責を担うことが義務付けられていました。

また、平安時代以降、八瀬童子は比叡山延暦寺とも密接な関係を持ち、

山門の守りや儀礼に参加することもありました。

そのため彼らは単なる農民でも僧侶でもなく

宮廷と寺院の両方に関わる独特な存在として位置づけられていたのです。

 

近世に入ると、八瀬童子は「皇族や公家の葬送」にも関わるようになりました。

特に江戸時代には、八瀬の人々は幕府からもその特殊な地位を認められ、

村としての自治をある程度許されていました。

彼らは「御棺を担ぐ者」として全国的にも知られ、

その存在は徐々に伝説的なものとなっていきます。

 

明治維新の後、近代国家としての制度改革が進む中でも、

八瀬童子の役目は消えることなく続きました。

 

明治天皇の大喪の礼(1912年)では、

八瀬童子が御棺を担ぎ、その伝統を近代に伝えました。

大正天皇の大喪の礼(1927年)でも同様に八瀬童子が務め、

その姿は写真や記録に残されています。

当時の新聞記事にも「古代よりの習わしを継ぐ八瀬童子が御棺を奉じた」と記されています。

 

しかし、昭和天皇の大喪の礼(1989年)では大きな転換がありました。

国家行事としての性格が強まり、警備や秩序を重んじる必要から、

御棺を担いだのは皇宮警察の警察官たちでした。

 

ここにおいて、八瀬童子の役目は事実上終焉を迎えたのです。

伝統は尊重されつつも、近代国家としての体制に合わせた判断だったといえるでしょう。

 

現在、八瀬童子の子孫たちは京都八瀬の地域に住み続けています。

彼らは地域の歴史や伝統を語り継ぎ、「八瀬童子会」といった保存会活動を通じて、

その独自の文化を後世に残そうとしています。

 

葬送の役目こそ失われましたが、

八瀬童子の名前は今なお京都の歴史文化の一部として生きています。

八瀬の里では、彼らの歴史を伝える資料館や記念碑があり、

訪れる人にその歩みを伝えています。

 

八瀬童子の歴史を振り返ると、彼らは単なる一族ではなく、

日本の国家儀礼と共に歩んだ「生きた文化財」であったことがわかります。

天皇の御棺を担ぐという役目は、権力や財産には結びつかないものの、

無上の名誉であり、千年以上にわたり誇りとして受け継がれてきました。

その役割が現代に受け継がれることはなくなりましたが、

その精神や歴史は日本文化の根底に息づいているといえるでしょう。

 

私たちが昭和天皇の大喪の礼を映像で見るとき、

御棺を担ぐ皇宮警察の姿の背後には、

かつて八瀬童子が白装束で御棺を奉じた姿が重なります。

 

時代は移り変わっても、そこには確かに一族の祈りと誇りが息づいています。

八瀬童子の存在は、日本の歴史の中で

「人知れず支え続けてきた人々の力」の象徴であり、

私たちが忘れてはならない大切な文化遺産だと思います。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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