
EXECUTIVE BLOG
2025.9.13
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 天皇の棺を担ぐ一族の話しでした。
今日は この話の続きとなります、、、。
八瀬童子という人々は天皇の棺を担ぐ役目で知られていますが、
その姿は単に儀式に関わる集団ではなく、
一つの固有の生活文化を持った共同体でした。
彼らの暮らしは京都の山間に根ざし、
農業や林業、炭焼きなどを営みながら生きていました。
山林に囲まれた八瀬の土地は決して豊かではありませんでしたが、
自然と共生する術を身につけ、
また宮廷や比叡山とのつながりによって特別な地位を保っていたのです。
生活の中で清浄を重んじる彼らには独自の禁忌もありました。
日常の所作や食事の仕方、さらには身にまとう衣服にまで
「穢れを避ける」という意識が徹底していました。
婚姻や血統の継承にも特別な慣習があり、
外部との結びつきを制限しながら血筋を守り続けたことは、
彼らの共同体を長く存続させる力となりました。
村には「童子頭」と呼ばれる長が存在し、
共同体の規律や祭祀、朝廷との折衝を担いました。
この組織的な運営があったからこそ、単なる周縁の民ではなく、
一つのまとまりを持った社会として成り立っていたのです。
八瀬童子はまた比叡山延暦寺とも深い関わりを持っていました。
比叡山の僧兵が力を誇った時代、
八瀬の人々は山門の呼びかけに応じて行事や戦いに参加した記録が残されています。
延暦寺にとって彼らは単なる労働力ではなく、信頼できる協力者であり、
また八瀬の人々にとっても寺院との関係は生活を守る重要な支えでした。
宗教勢力と宮廷儀礼の双方に関わった彼らは、
政治と信仰の接点に生きた特別な存在であったと言えるでしょう。
やがて時代が下ると八瀬童子の役割も変化していきました。
明治天皇の大喪の礼に続き、大正天皇の大喪の礼でも彼らは棺を担ぎました。
大正天皇の葬儀は1927年2月、東京から多摩陵へと移送される一大儀式でした。
八瀬童子は白装束に身を包み、厳かな行列の中で棺を担ぎ上げ、
宮廷儀礼の最も重要な瞬間を支えました。
その姿は沿道の人々にも強い印象を与え、
千年にわたり継承されてきた役目の重みを示すものでした。
後に語られた記録には、
冷たい冬の空気の中で一糸乱れぬ歩調を保ちながら進む八瀬童子の姿が記されています。
この大正天皇の大喪の礼が、彼らが実際に棺を担った最後の儀式となりました。
昭和天皇の大喪の礼では棺を担ぐ役割は皇宮警察に引き継がれ、
八瀬童子は正式な役目から退くこととなりました。
長い歴史の中で守ってきた務めはここで途絶えましたが、
それ以降も人々は伝統を残そうと努力を重ねています。
現代において八瀬の人々は自らの文化を伝承しようと努めています。
保存会が組織され、かつての衣装や行列の再現が行われ、
京都八瀬には彼らの歴史を伝える記念碑や資料館が設けられています。
観光として訪れる人々にとっては、
八瀬童子の物語は一族の誇りと文化遺産として触れることができる貴重なものです。
かつて宮廷に仕え、延暦寺とも手を携え、千年以上の時を刻んできた八瀬童子は、
現在はその役目を失ったとはいえ、文化の担い手として新しい形で生き続けています。
その姿は「伝統を失ってもなお文化を守る」
という人間の力を示しているように思えます。
天皇の棺を担いだという特異な務めだけでなく、生活の知恵や信仰との結びつき、
そして近代における文化保存の努力までを見つめ直すことで、
八瀬童子の歴史は単なる過去の遺物ではなく、
今を生きる私たちにとっても学ぶべき価値を持つ存在だと感じられるのです。