
EXECUTIVE BLOG
2025.9.14
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは八瀬童子の話しでした。
今日もこの話の続きとなります、、。
明治時代に入り、日本は近代国家として大きく変貌を遂げましたが、
その中でも宮廷儀礼は古代からの伝統を引き継ぎながら新しい形に整えられていきました。
明治天皇の大喪の礼では、八瀬童子が御棺を担ぐという古来の役目を果たし、
その姿は近代国家の幕開けを象徴する儀式の中で人々の目に焼き付けられました。
大正天皇の崩御に際しても、八瀬童子は白装束に身を包み、
厳粛に御棺を奉じて行列に加わりました。
新聞記事には、
古代以来の伝統が現代に息づいていることへの驚きと敬意が記されています。
そして昭和天皇の御代に至ると、戦争と敗戦を経て天皇は象徴と位置づけられ、
大喪の礼も国家的行事としての性格を強めていきます。
1989年に昭和天皇が崩御された際には、それまでの伝統は大きく転換し、
御棺を担ぐ役目は皇宮警察の警察官が務めることになりました。
秩序と警備の必要性、また現代的な儀式運営の観点からやむを得ない判断でしたが、
この瞬間に八瀬童子の役割は千年以上続いた歴史に幕を下ろしたのです。
役目を失った後の八瀬童子は、ただ静かに姿を消したわけではありません。
彼らは京都の八瀬に住み続け、
自らの歴史と誇りを次の世代に伝えるために保存会を結成し、
資料館を設けて活動を始めました。
八瀬童子会では、かつての装束や御棺奉仕の様子を写真や記録として残し、
訪れる人々に紹介しています。
八瀬の里には記念碑が建てられ、
宮中と深く結びついた一族の歩みが語り継がれています。
かつては儀式の中でひたすら目立たぬ存在に徹してきた彼らが、
現代ではむしろ自分たちの存在を広く知ってもらう努力をしているという点に、
時代の移り変わりを感じます。
伝統が失われても、それを文化として残そうとする意志こそが
今の八瀬童子の生き方なのです。
八瀬童子の歴史を日本文化全体の葬送観の中に位置づけると、
また新たな姿が見えてきます。
古墳時代に葬送を司った土師氏は、
土器を作る技術者でありながら同時に天皇や有力者の葬儀を担った一族でした。
その流れを汲む人々がやがて八瀬に根を下ろしたと考えられています。
また、陵戸と呼ばれる陵墓管理の人々や、
時代によっては山間に暮らしたサンカと呼ばれる人々など、
日本には特定の集団が葬送や死に関わる役割を担ってきた歴史があります。
八瀬童子もその系譜の中に位置づけられ、
日本独自の葬送文化を示す一つの事例といえるでしょう。
さらに視野を広げれば、世界の王侯貴族の葬儀とも比較ができます。
ヨーロッパの王室では、衛兵や近衛兵が棺を担ぐことが伝統となり、
中国では宦官や特定の役職の者が皇帝の葬列を整えました。
どの国でも最高権威者の葬送は
「誰が棺に触れるか」という点が厳格に定められていました。
八瀬童子はまさにその日本版であり、
千年以上にわたって一族のみに許された行為を続けてきたという点で、
世界的に見ても稀有な存在だといえます。
その中には人間味あふれる逸話も残っています。
ある代の童子頭は、病を押して大喪の礼に参加し、
最後の力を振り絞って御棺を担いきったと伝えられています。
その姿を見た周囲の者は、
命を削ってでも役目を果たすという覚悟に胸を打たれたといいます。
また、大正天皇の御大葬に加わった八瀬童子の一人は、
式の後に「我らが生まれてきた意味は、この一日に尽きる」
と語ったと記録に残されています。
それほどまでに彼らにとって棺を担ぐことは誇りであり、
存在意義そのものだったのです。
そして昭和天皇の時に役目を失ったとき、
八瀬童子の子孫は深い喪失感を抱いたといいます。
長い歴史の中で受け継いできた務めを失うことは、
一族のアイデンティティを失うに等しかったのです。
しかし彼らはただ悲しむだけではなく、
「今度は文化として残すのが自分たちの務めだ」と方向を変えました。
今日、八瀬童子会が活動を続け、記念館を訪れた人々に伝統を紹介する姿には、
その覚悟が脈々と流れているのです。
八瀬童子の歴史は、伝統とは単なる過去の遺物ではなく、
受け継ぎ方によって新たな形を得て未来へと続いていくものだと教えてくれます。
彼らが失ったものは確かに大きいですが、
残そうとする努力こそが文化の継承を可能にしています。
私たちが今、八瀬童子について学ぶことは、
日本人が葬送という行為にどのような意味を込めてきたのかを知ることであり、
同時に人が伝統をどう守り、どう未来に渡していくのかを考える手がかりにもなります。八瀬童子が御棺を担いだ姿はもう現代にはありませんが、
その誇りと祈りは今も八瀬の里に息づいており、
静かに私たちに語りかけているのです。