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社長&顧問ブログ

2025.11.6

岡倉天心

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 第一回文化勲章受章者の 横山大観の話しでした。

今日は 彼の師匠である 岡倉天心の話に進みます、、、。

 

岡倉天心は一八六三年、幕末の横浜に生まれました。

当時の横浜は開港間もない国際都市であり、

外国人の往来や異文化の交流が日常的に見られた場所でした。

 

父・岡倉覚右衛門は福井藩の下級武士でしたが、時代の流れの中で商人となり、

生糸貿易を行う「石川屋」の支配人を務めていました。

そのため天心は幼いころから外国人を間近に見て育ち、

英語を学びながらも寺で漢籍を学ぶという、

東西の文化が交わる環境で少年時代を過ごしました。

この経験がのちに彼の国際的な視野と東洋文化への誇りを育てる大きな要因となりました。

 

やがて東京に出た天心は、東京開成学校で学び、そこで運命的な出会いを果たします。

外国人教師として来日していたアーネスト・フェノロサという美術研究者との出会いです。

 

フェノロサは日本美術の価値を高く評価しており、共に古美術の調査を進めるうちに、

天心は日本の美に宿る精神の深さに目を開かされました。

 

当時、政府は西洋化の波に乗り、

古いものを捨て新しいものを取り入れることを進歩と考えていました。

その結果、仏像や仏画など多くの文化財が失われようとしていました。

 

天心はそうした風潮を痛烈に批判し、

日本人が自らの文化の価値を見失っていることに危機感を抱きました。

こうして彼は

「日本美術を守り、その精神を世界に発信する」

ことを生涯の使命とするようになったのです。

 

文部省に勤めるようになった天心は、

全国の古社寺を巡って美術品の調査と保存に尽力しました。

 

法隆寺の夢殿に安置されていた「救世観音菩薩像」を拝観した際には、

その神秘的な美しさに深く感動したと伝えられています。

 

さらに彼は欧米に渡り、美術館制度や教育制度を視察して、

日本でも同じように美術を体系的に守り育てる仕組みを作ろうと考えました。

こうした経験をもとに、明治二十三年には東京美術学校(現在の東京藝術大学)

の校長に就任し、横山大観、菱田春草、下村観山ら若き才能を育てました。

 

天心の教育は単に絵を教えるものではなく、

「形をまねるのではなく、心で描け」という精神を重視するものでした。

この考え方はのちに「日本画」という新しい芸術形式を確立する土台となります。

 

彼が「天心」という号を用いたのも、その思想を象徴するためでした。

 

「天心」という言葉は、文字通り「天の心」、

つまり自然や宇宙と通じる純粋な心を意味します。

 

天心にとって美とは、技巧ではなく精神の表れであり、

人間が自然と一体になったときに見える真の姿でした。

 

号を用いることで、岡倉覚三という個人名を超え、

「東洋の精神を探求する者」としての自らの立場を示したのです。

 

詩や書に署名するときにもこの号を用い、

やがて人々の間で「岡倉天心」という名が定着しました。

そこには、個人の名誉よりも理念を伝えたいという強い意志が込められていました。

 

東京美術学校を辞したのち、天心は日本美術院を設立します。

官の枠を離れ、芸術家たちが自由に創作を行える場をつくるためでした。

 

彼は横山大観や菱田春草たちとともに日本画の新しい表現を模索し、

輪郭を描かずに色の濃淡で空気感を表す「朦朧体」と呼ばれる手法が生まれました。

これは天心の

「目に見えぬものを描け」「心の中にある風景を描け」という教えの結晶でもあります。

 

やがて天心は活動の拠点を東京・谷中に構えます。

当時の谷中は寺町でありながら、文人や芸術家が集う静かな地域でした。

 

ここで日本美術院の創立を進め、多くの芸術家たちと語り合い、指導を行いました。

その旧居跡には、現在「岡倉天心記念公園」が整備されています。

 

この公園は小さな空間ながら、彼の思想を今に伝える場所として親しまれています。

園内には「六角堂」と呼ばれる建物があり、

これは茨城県北茨城市の五浦に天心が建てた六角堂を模して造られています。

 

五浦の六角堂は天心が自然と語り、芸術家たちと共に創作に励んだ象徴的な場所でした。

その形を谷中でも再現することで、彼が生涯をかけて追い求めた

「自然と人間、精神と芸術の調和」という理念が感じられるようになっています。

 

天心の晩年は病との闘いの中にありましたが、彼は最後まで筆をとり、

思想を伝え続けました。

 

代表的な著書『茶の本(The Book of Tea)』は、英語で書かれた日本文化論であり、

茶の湯を通して東洋の精神性を世界に紹介した名著です。

 

彼は

「茶とは、ただの飲み物ではなく、簡素の中にある美、

謙虚の中にある精神を象徴するものだ」

と説きました。

この書は現在でも欧米で読み継がれ、日本文化を理解するための入門書とされています。

 

岡倉天心という人は、単に画家や教育者ではなく、日本文化そのものの代弁者でした。

西洋化の波に押される中で、自国の美と精神を守り、

それを世界に伝えようとした知識人であり、理想家でした。

 

横浜での幼少期に培った国際感覚、フェノロサとの出会いで目覚めた文化意識、

そして谷中や五浦での芸術活動。

それらすべてが

「日本とは何か」「美とは何か」

を問い続けた彼の人生を形づくりました。

 

現在、谷中の岡倉天心記念公園を訪れると、都会の喧騒の中に静かなたたずまいがあり、

木々の間に六角堂が見えます。

その場所に立つと、

天心が語った「天の心をもって美を見る」という言葉が、ふと胸に響いてくるようです。

 

彼の残した教えは、今なお日本人の美意識の根底に息づき、

東洋の精神を語る象徴として生き続けています。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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