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2025.11.13

三島文学

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは ノーベル文学賞を受賞した 川端康成の話しでした。

 

今日は その川端が高く評価していたと言われる三島由紀夫の話しに進みます、、。

 

三島由紀夫は川端康成の正式な弟子という関係ではありませんが、

若いころから川端に高く評価され、文壇への橋渡しを受けた存在でした。

 

川端にとって三島は早くから才能を認めた文学界の新星であり、

三島にとって川端は尊敬すべき先達であり、庇護者のような存在でした。

 

二人の間には形式的な師弟関係よりも、

文学的な精神の継承と緊張感のある美学的対話がありました。

 

川端が一九六八年にノーベル文学賞を受賞するまでの間、

三島もたびたび有力候補として取り沙汰され、

実際にスウェーデン・アカデミーの公式記録によれば、

一九六三、六四、六五、六七、六八年の少なくとも

五回にわたりノミネーションが提出されています。

 

つまり三島は戦後日本文学を代表する存在として、国際的にも高い評価を受けていたのです。三島文学が目指したのは、

伝統と近代、精神と肉体、生と死といった対立概念を統合しようとする試みでした。

 

彼の作品には常に「美」と「死」の緊張が流れています。

 

『仮面の告白』では自我の内面と肉体の葛藤を描き、

『潮騒』では純粋な愛を神話的に昇華し、『憂国』や『太陽と鉄』では

「死によってしか完結しない美」という理念を展開しました。

 

晩年の大作『豊饒の海』四部作に至るまで、その主題は一貫しており、

「言葉と身体の統一」「行為による美の証明」を究極の目標としたのです。

 

中でも代表作『金閣寺』は、実際に起きた金閣焼失事件をもとに、

吃音に悩む青年僧・溝口が、金閣という絶対的な美に取り憑かれ、

ついには焼き払うという破壊的な衝動に駆られる姿を描いた心理小説です。

 

この物語で三島が訴えたのは、人間が手の届かない理想の美に圧倒され、

それを自分のものとするために「破壊」という極端な手段に走る心の構造でした。

 

溝口にとって金閣は崇拝すべき対象でありながら、

同時に自分の劣等感を突きつける存在でもありました。

 

完璧な美に対して、人間の肉体は時間とともに衰え、醜く変化していきます。

その断絶を受け入れられない彼は、

ついに「滅ぼすことでしか所有できない美」という逆説に取り憑かれていくのです。

 

この構造には、三島自身の思想が強く投影されています。

 

彼は評論『太陽と鉄』で、美と肉体の極限的な関係を「死への憧れ」として語りました。

つまり、

美とは生の頂点でありながら、同時に死と結びつくものであるという考え方です。

 

『金閣寺』はこの思想を最も鮮やかに具現化した作品であり、

金閣を焼く行為が

「完全なる美の瞬間」に至るための自己犠牲であるという構図を通じて、

美の本質を問うたのです。

 

では、なぜ三島はノーベル文学賞を受賞できなかったのか。

 

第一の理由は、当時の選考事情です。

 

一九六八年の選考では、

サミュエル・ベケットやアンドレ・マルロー、W・H・オーデンらが強く議論され、

最終的には「東洋文学の象徴」として川端が選ばれました。

選考委員会は「言語圏の多様化」と「東洋的感性の紹介」を重視しており、

すでに国際的に知名度が高かった川端の受賞が時代の流れに合致したのです。

 

第二の理由は、年齢と時機です。

三島は一九七〇年に四十五歳で自裁しました。

ノーベル賞は原則として生存者にのみ授与されるため、

もし彼があと十年生きていたなら受賞の可能性は十分にありました。

七〇年代の日本文学界では三島の再評価が進んでおり、

彼の思想的成熟がさらに深まっていたら、

そのタイミングでの受賞も現実的だったと考えられます。

 

第三の理由は、文学外の要素です。

ノーベル賞は基本的に作品の価値を評価するものですが、

候補者の社会的・政治的立場が影響を及ぼすこともあります。

六〇年代後半の三島は、

自衛隊への接近や民族主義的発言などで国際的に議論を呼んでいました。

こうした行動は彼の文学性を否定するものではありませんが、

選考委員会にとって「普遍性」の評価を難しくした可能性があります。

 

しかし、受賞しなかったことが三島文学の価値を下げるものではありません。

むしろ彼の存在があったからこそ、川端の受賞はより豊かな文脈を持ったと言えます。

 

川端が「日本的抒情の極北」として静謐な美を表したのに対し、

三島は「美の極限を生きる行為」として激烈な表現を追求しました。

 

二人の美学は正反対のようでいて、

実は共通して「日本語による美の極限」を目指していたのです。

 

川端が選ばれた一九六八年、

その背後で三島の鋭利な思想と文学が同時に存在していたことが、

戦後日本文学を世界に知らしめる大きな要因でした。

 

三島が残した作品群は、単なる言葉の芸術ではなく、

思想・身体・行為を一体化した生の表現でした。

 

彼の文学は、死の美学を通して

「生とは何か」「美とは人を救うものか、それとも滅ぼすものか」

という問いを投げかけ続けています。

 

ノーベル賞という枠を超えて、三島由紀夫は世界文学史における独自の頂点に立ち、

今なお読み継がれています。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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