
EXECUTIVE BLOG
2025.11.15
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 三島由紀夫の作品の中でも
大作と言われている 豊饒の海の話しでした、、。
今日は 川端康成からも 作家としての才能を認められてた三島由紀夫が
なぜ 盾の会を結成し 市ヶ谷で自害までしたのか????
の話を 二部構成で進めます、、、
先ず一部。
三島由紀夫は戦後日本を代表する作家として早くから才能を認められ、
川端康成にもその文学的能力を高く評価されるほどの存在でしたが、
彼の心の中では、戦後の価値観と自身の美学のあいだに深い断絶が広がっていきました。
文学の世界では名声を得て世界的にも注目されていながら、
なぜ武装組織とも見える「盾の会」を結成する方向へ心が傾いていったのか、
その背景には、彼が幼少期から抱えていた身体性へのコンプレックス、
敗戦体験への強い衝撃、
そして「言葉だけの世界」への限界を痛烈に意識したことが大きく関わっていたのです。
幼少期の三島は病弱で、身体的な弱さを恥じる気持ちをずっと心に抱えていました。
学業や文学では天才的な成果を出せたものの、
その一方で「魂と肉体の分離」を感じながら成長し、
やがて自身の文学が精神を描きながらも
肉体の裏付けを欠いた空虚なものに感じられるようになります。
この思いが次第に高まり、
後年ボディビルや武道に励み、
肉体を鍛え上げることに強い執着を見せるようになるのです。
さらに第二次世界大戦の敗北は、彼の精神に決定的な影響を与えました。
日本が急速に民主化し、それまでの価値観が否定され、
武士道的精神や天皇への尊崇が表面的には消え去ってしまう姿に、
彼は「日本の魂が失われていく」と強い危機感を抱きました。
三島は文学の世界で名声を極めていきながらも、作家として言葉を書き連ねていくほど、
逆に「言葉だけでは世界を動かせない」という焦燥を募らせていきます。
特に『金閣寺』『憂国』『英霊の声』など、
死や美、武士道といった主題に向かう作品が増えるにつれ、
三島は「美しい行為による完全な自己表現」を求める強い衝動を抱くようになります。
やがて彼は、文学と行動が一致する世界を夢見るようになり、
戦後日本の変容に対して「言葉で抵抗する」のではなく、
「行動で示す」という考えへと変わっていきました。
こうした心境を背景に、三島は自衛隊との交流を深めていきます。
彼は自衛隊を「失われた武士道精神の最後の砦」と捉え、
その中にこそ日本の伝統的な精神性を復活させる可能性を見出したのです。
しかし当時の自衛隊は、憲法の制約の下で自らの力を十分に示すこともできず、
国の誇りも守れない存在に見えました。
三島は、彼らが国家の主権の象徴である天皇を守る本来の使命を果たすためには、
まず精神の再生が必要だと考え、
「精神の武士道」を回復する若者を育てようとして「盾の会」結成へと向かいます。
盾の会は、
単なる私設武装組織でも、政治団体でもなく、
三島にとっては「精神の再武装」「日本の魂を取り戻すための象徴的集団」でした。
彼は会員に厳しい訓練を課し、礼節と規律を重視し、
日本文化の精神的中核を体現する集団を作り上げようとしました。
三島由紀夫が盾の会を作った理由は、
文学では到達できない「行動による真実」へと踏み込むためであり、
自らの肉体・精神・美学を統合させるための最終章を準備する意味合いがあったのです。
こうした複雑な背景を経て、三島は人生の終盤に近づくほど、
言葉だけではなく
「生き方そのものが作品であるべきだ」という強烈な思想へと傾いていきます。
そしてこの思想は、のちに市ヶ谷駐屯地での壮絶な事件へとつながり、
三島の人生そのものが一つの巨大な作品へと昇華されていくことになるのです。
二部は 明日へ続く、、、。