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社長&顧問ブログ

2025.11.20

東大安田講堂事件

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 東大医局問題の話しでした。

今日は この全共闘の話しの総括になります。

 

東大医学部処分問題をきっかけにして

一九六八年から六九年にかけて全国を揺るがした東大紛争と全共闘運動は、

単なる学生の反乱ではなく

戦後日本の大学制度が抱えていた矛盾と精神的空気の爆発であり、

その最終局面に三島由紀夫との歴史的討論会と安田講堂事件が連続して起きたことで、

今なお特別な意味を持つ一連の出来事として語り継がれています。

 

医学部処分問題は

教授や医局が人事と医師の未来を握る封建的体質を学生が批判したところから始まり、

大学側が逆に学生を重く処分したことで怒りが一気に噴き出し、

医学部だけの問題が大学制度全体への疑問へと広がり

学生たちは「大学とは何か」「権威とは何か」と根源的な問いを発し始めました。

 

この時期の学生運動は既成の左翼政党や全学連の派閥的対立とも距離を置き、

大学内部から湧き上がる“純粋な反抗”としての色彩が強かったことから、

やがて「全学共闘会議」、通称全共闘という新しい形の連帯が生まれていきました。

 

全共闘は明確な指導者や統一綱領を持たず、

文学部、教養学部、医学部、理学部、工学部など学部ごとに異なる背景を抱えながら、

共通して「大学の権威構造に対する根源的否定」を掲げて緩やかに結合していました。

 

彼らの中心にあった思想は「自己否定」と呼ばれる独特のもので、

自分自身が内面化した権威、固定観念、制度への従属を破壊し、

真に自由な主体として立ち上がるという考えであり、

この思想が運動を過激に押し進める一方で

多くの学生に強い共感や熱狂を生みました。

 

全共闘内部にはノンセクト・ラディカルと呼ばれる党派に属さない急進派、

革マル派、中核派など既成の新左翼、

学部別の全共闘委員会など多様な集団が共存していましたが、

 

彼らは一致して大学という制度そのものに疑問を投げかけ、

教授会、大学当局、そして国家との関係を批判しました。

 

特に医学部が警察力の導入まで経験したことで

「大学が警察権力に屈した」と激しい反発が広がり、

他学部でもストライキやバリケード封鎖が連鎖的に発生し、

東大本郷キャンパス全体が巨大な紛争の舞台へ変わっていきました。

 

やがて全共闘の学生たちは安田講堂を象徴的拠点として占拠し、

大学当局との緊張は限界まで高まり、

社会は「東大はどうなるのか」と不安と注目を強めていきます。

 

この混沌とした状況の中で、

文学者であり思想家である三島由紀夫が

全共闘の学生たちと討論会を行うという前代未聞の出来事が

一九六九年五月十三日、東大駒場の九〇〇番教室で起きました。

 

三島は当初から学生たちの運動に関心を持ち、その言葉の熱量と真剣さを評価しており、

また自らが生涯追い求め続けてきた

「言葉と行動の一致」という美学と、

学生たちの「自己否定」「大学の解体」

に底流する焦燥や純粋な魂の叫びに共鳴する部分もありました。

 

一方で学生たちは三島に対し、戦後日本の精神的腐敗を鋭く批判し続けた存在として、

また国家と個人、伝統と自由の狭間で葛藤し続けた“本気の大人”として

畏敬にも似た感情を抱いていました。

 

討論会は単なる対立ではなく、お互いが本音でぶつかり合い、

加熱しても最後にはどこか相手を理解しようとする奇妙で強烈な緊張感を帯びており、

教室に集まった千人近い学生は一言一句を逃すまいと耳を傾けました。

 

討論の中で三島は学生たちの言葉の熱さに共感しつつ、

その革命観の曖昧さ、国家や暴力に対する考えの浅さを指摘し、

学生たちは三島の思想の硬さや美学の極端さを批判しながらも、

言葉に宿る重さと覚悟に圧倒されていきました。

 

討論後に学生側から拍手が起き、

三島も「今日は本当に楽しかった」と語ったという逸話は、

この対話が単なる政治的対立ではなく、

世代と思想の深い交流であったことを象徴しています。

 

こうして思想的な頂点を迎えた東大紛争は、

その後急速に実力衝突の局面へ進んでいきました。

 

討論会の半年後である一九六九年一月十八日から十九日にかけて、

ついに警視庁機動隊が安田講堂へ大規模突入を開始し、

学生たちはバリケードと消火器と投石で抵抗し、機動隊は放水と放火器具破壊で応戦し、

二日間にわたって激しい攻防がテレビ中継され、

全国の家庭がこの“戦争のような光景”をリアルタイムで目撃しました。

 

やがて安田講堂は制圧され、数百名が逮捕され、大学の象徴は瓦礫の山となり、

この結果を受けて東大は前代未聞の「入試中止」を決断し、

日本の大学史にも類を見ない結末を迎えました。

 

この一連の流れの中で全共闘内部でも対立や疲弊が進み、

運動は次第に収束していきましたが、彼らが残した言葉や思想は、

その後の市民運動、文化運動、大学改革論に深い影響を残し、

現代の大学制度にも少なからず痕跡をとどめています。

 

医学部処分問題から始まった運動は、大学という制度の根本的再考、国家と個人の関係、

自由とは何か、自分は何に従属しているのかという普遍的な問いへと発展し、

その問いは今もなお多くの人に響く力を持ち続けています。

 

そして三島由紀夫との討論会は、学生運動の思想的象徴としてだけでなく、

戦後日本の精神をめぐる白熱した対話として、

今もなお特別な輝きを失わない出来事として語り継がれているのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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