
EXECUTIVE BLOG
2025.11.24
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日は 勤労感謝の日でした
今日は振替休日ですね、、、、
と言う事で
今日は 勤労感謝の日についての話に進みます、、、。
勤労感謝の日が出来たきっかけと歴史的背景は、
日本の年中行事の中でも
特に古い伝統と戦後の大きな価値観の転換が重なって生まれた日であり、
その成り立ちをたどると日本人の暮らし方や社会観の変化がよく見えてきます。
そもそも勤労感謝の日は戦後に新しく作られた祝日だと思われがちですが、
実は起源をたどると飛鳥時代に始まった「新嘗祭」という国家的な祭祀に行き着きます。
新嘗祭とは、その年に収穫された新穀を天皇が自ら神前に供え、
天地の恵みと五穀豊穣に感謝し、自らも口にする儀式で、
宮中だけでなく日本各地でも同じ精神を持つ祭りが行われてきました。
農耕社会の日本において、収穫は命そのものを意味し、
五穀が無事に実ったことは人々の生活が保証されたことを意味しますから、
農民だけでなく武士も庶民も、
この日は一年を無事に生きさせてもらえたことに感謝する大切な節目となりました。
日本では天皇が国と民の安泰を祈る祭祀を行うことで
国全体の秩序と平安が保たれると考えられていたため、
新嘗祭は単なる農耕儀礼ではなく、国家の礎を形づくる重要な儀式として扱われ、
明治以降は「新嘗祭」は正式な国家行事となり、
十一月二十三日は祭日として全国で祝われるようになりました。
しかし戦前の新嘗祭は、天皇制と強く結び付けられ、
国家の統合を象徴する儀礼として政治的にも利用されていきました。
戦中には国民精神の昂揚が図られ、
収穫への感謝という本質よりも国家的な意味づけが前面に押し出されるようになります。
ところが、戦後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に入り、
国家神道の廃止と政教分離の原則が強く求められました。
この流れの中で、天皇の私的行事としての祭祀は存続するものの、
国家が宗教色を帯びた祭りを公的祝日とすることは認められなくなり、
祝祭日の全面的な見直しが行われることになりました。
こうして、戦前の新嘗祭という名称は公的な場から姿を消し、
その代わりに昭和二十三年に「勤労感謝の日」という新しい祝日が制定されたのです。
つまり、名称は変わったものの、
日付が十一月二十三日のままであるように、
本質的には新嘗祭の精神が形を変えて現代に受け継がれたと言えます。
戦後の日本は急速な民主化と近代化の中で、
国民一人ひとりの働きが社会を支えるという価値観が重視され、
勤労は国民生活の中心にある尊い営みと位置付けられました。
そこで祝日の趣旨は
「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」とされ、
農業だけでなくあらゆる産業、そしてすべての働く人に感謝を向ける日として
再構築されたのです。
働くことが人間の尊厳を支え、社会の土台をつくるという理念は、
戦後の復興期を生きる日本人にとって非常に重要な意味を持ちました。
工場で働く人、家庭を支える人、社会を動かすあらゆる働きが尊ばれ、
皆が支え合って国全体を再建していく、
その象徴として十一月二十三日は国民の祝日として定着していきました。
戦前の新嘗祭と戦後の勤労感謝の日は、
形こそ違いますが「天地の恵みへの感謝」と「働く人々への感謝」という、
いずれも人が人として生きるための根本にある感謝の心を大切にする点で共通しています。
農耕社会では自然の恵みが生活の中心であり、
現代社会では人の働きが社会の中心にあるという違いがあるだけで、
根底には
「生きていくために必要なものは、
自分だけの力ではなく多くの存在に支えられていることへの感謝」
という日本人らしい思想が流れ続けています。
勤労感謝の日は単に働く人をねぎらうだけの日ではなく、
自然の恵みも、人の営みも、家族も社会も互いに支え合って成り立っているという
大きな循環を思い起こさせてくれる日であり、
古代から現代に至るまで変わらず日本人の心の中に息づいている
「感謝の文化」を象徴する日だと言えるのです。