
EXECUTIVE BLOG
2025.11.27
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 新嘗祭の話しから 日本食文化の話しでした。
今日は 一昨日の11月25日が命日となった三島由紀夫の話に戻ります。
一一月二十五日は三島由紀夫の命日で、
今でも日本の近現代史の中でも特に強烈な印象を残す一日として語り継がれています。
作家として世界的な名声を持ちながら、
文学だけでは果たせないと感じた「行動による思想の表現」を追い求めた三島は、
一九七〇年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説ののち割腹自決し、四十五年の生涯を閉じました。
この出来事には、
三島が結成した私的団体「盾の会」の若い隊員四名が同席していました。
彼らはそれぞれに強烈な思想的訓練を受け、三島を敬慕し、
日本の精神的再生を夢見て自衛隊との交流訓練にも参加していました。
しかし、その理想は社会に受け入れられず、事件当日は暴徒扱いされ、
騒然とした空気の中で三島の最期を見届けることとなりました。
事件当日同席したのは、森田必勝、古賀浩靖、小川正洋、三浦清弘の四名ですが、
このうち森田は三島に深く心酔しており、
生涯をかけて三島の思想と行動に殉じる覚悟を持っていました。
三島が割腹した直後、森田も切腹し、古賀が介錯を務めたため、
隊員の中でも最も劇的な最期を遂げました。
三島にとって森田は「精神の弟子」であり、事件前夜に共に酒を酌み交わし、
最後の心の確認をしていたといわれています。
この二人の死を見届けた残りの隊員たちは、
その場で現場を制圧され事情聴取へと連行されました。
残った隊員たちは事件後、逮捕・勾留され、
裁判で執行猶予付きの有罪判決を受けて社会に戻りました。
当時はまだ学生で、二十歳前後の青年でした。
彼らは事件の重さ、社会の非難、家族への負担、
そして「三島を止められなかった」という自責の念を抱えながら、
その後の長い人生を歩むことになります。
事件後に語られた彼らの言葉の多くは
「自分たちは三島の思想の深さを理解しきれていなかった」
「あの日を今でも夢に見る」というものが多く、
単なる“同志”というより、
“巨大な人格に巻き込まれた若者”としての苦悩が感じられます。
特に古賀は森田の介錯をした本人として長く心の傷を抱え、
事件から何十年経っても「三島先生のことを話すのは苦しい」と語っています。
青年期の数年を熱烈な思想の渦中で過ごした彼らは、三島亡き後、
それぞれごく普通の社会人として生きる道を選びましたが、
自分の中に残り続ける「盾の会の記憶」を、家庭や職場では語らず、
静かに抱え続けていたようです。
盾の会そのものは事件直後に事実上解散となり、
組織として活動を続けることはありませんでした。
これは三島自身が事件の時点で「盾の会は役目を終えた」と考えていた節もあり、
事件の前から隊員たちへのメッセージや遺書のような言葉が残されており、
彼にとって盾の会は“行為の舞台としての役割”を果たしたと言えます。
そのため、
残された隊員が後継組織を立ち上げたり活動を受け継いだりすることはありませんでした。
多くは事件に背を向けるように社会へ戻り、ある者は結婚し、
ある者は会社員として定年まで勤め、表に出ることなくひっそりと暮らしました。
ただし、
中には大人になってから事件の真実や自らの立場について語り始めた元隊員もいます。
彼らは
「三島が思っていたような理想国家をつくることが目的ではなかった」
「あれは若さゆえに信じ込んでしまった熱病のようなものだった」
という言葉を残しており、
三島の思想と行動の重さに押しつぶされた青春であったことをしみじみ語っています。
一方で、彼らは三島への尊敬そのものを否定してはいませんでした。
彼らは「三島先生は本気だった」「あの人ほど誠実な人はいなかった」と語り、
その誠実さを感じていたからこそ巻き込まれたというニュアンスが多く見られます。
つまり、三島の最後の行動に完全に共鳴していたわけではなく、
「三島への尊敬」と「社会的現実」と「自分の若さ」
が複雑に絡み合ったまま記憶として心に残っているという状態でした。
事件後の盾の会のメンバーは、思想団体として活動し続けたわけではなく、
“個々の人生の中の傷と学び”として静かに胸にしまわれていったのです。
では、三島由紀夫はどこに眠っているのでしょうか。
三島の墓は東京都多磨霊園にあり、
父・平岡梓、母・倭文重と並んで静かに埋葬されています。
墓石は驚くほど質素で、
日本中にその名を知られた大作家の墓とは思えないほど控えめなものです。
毎年命日には多くのファンが訪れ、花を供え、静かに手を合わせていますが、
派手な追悼行事が行われるわけではなく、
三島の死の衝撃とは対照的な静けさが漂っています。
また、森田必勝も多磨霊園に眠っていますが、三島とは離れた区画にあり、
家族によってひっそりと管理されています。
森田の墓を訪れる人は少ないものの、三島研究者や一部の愛好家が命日に訪れ、
彼の短い人生を偲んでいます。
三島の最期は今も多くの議論を呼び続けています。
「なぜ文学者が武士のような死を選んだのか」
「あの行動に政治的意味があったのか」
「隊員を巻き込む必要があったのか」など、
答えのない問いが残されています。
しかし、残された隊員たちの生き方から見えてくるのは、
事件が単なる政治テロではなく、
一人の作家の思想の実験が若者の人生に深い影を落としたという現実です。
彼らの多くは晩年になっても事件を語りたがらず、
「あの日が人生を二つに分けた」とだけ述べて静かに暮らしました。
三島の命日が来るたびに、彼の文学だけでなく、
この事件で人生を変えられた若者たちの存在にも思いを馳せることは、
歴史を人間の物語として理解するために大切な視点だと言えるでしょう。