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社長&顧問ブログ

2025.12.4

改暦

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 旧暦の話しでした

今日は 旧暦から新暦に変わった時の話に進みます、、。

 

明治五年十二月三日がそのまま「明治六年一月一日」になったという急すぎる改暦は、

日本の長い歴史の中でも類を見ないほど唐突な出来事でした。

 

何しろ、政府が太陽暦の採用を発表したのは十一月九日のことで、

実施までわずか二十六日しかありませんでした。

 

それまで人々は月の満ち欠けに合わせた太陰太陽暦で生活し、

一年の区切りは旧暦の正月が当たり前だと感じていましたから、

「来月から新しい暦を使います」ではなく、

「あと少しで今年は終わりです。今の十二月三日が新しい一月一日です」

と突然告げられた時、多くの庶民が耳を疑ったのも無理はありませんでした。

 

とくに農村では「今年は十三か月あるはずだったのに、

いきなり年が明けるとはどういうことだ」と戸惑う声が多く、

町場でも「正月の準備が全く間に合わない」と騒ぎになりました。

 

当時の正月準備は現代の比ではなく

、餅つき、門松、しめ縄、祝い膳、着物の仕立て、年始回りの挨拶など、

多くの家庭行事が一挙に押し寄せるものでした。

 

それを三週間足らずで済ませよと言われたのですから、

主婦たちは奔走し、商売人は大混乱し、

各地で「間に合わぬ」という声が上がったのも当然でした。

 

さらに混乱が大きかったのは、商売人や職人たちの“締め”と“支払い”でした。

 

旧暦ではまだ十二月のはずが、改暦のおかげで突然新年に切り替わってしまったため、

「今月中に払います」「年内に清算します」といった約束が一斉に曖昧になり、

多くの取引先では「この支払いは旧暦の約束か、新暦に基づくのか」で揉めました。

 

ある呉服屋の記録には、

「年内に返すと客が言うたが、急に年が明けるならば、いつが年内か分からぬ」

と困惑した様子が残されています。

 

また、貸金業では返済日を巡って大騒ぎになり、

「返済日が一ヶ月早くなった」「いや、本当なら旧暦で返すはずだ」

と言い争う事例が少なくありませんでした。

 

役所でも混乱が生じました。官吏の給料や年末手当はどうするのか、

学校の冬休みはどうするのか、卒業式はどう計算するのか、

寺社の祭礼は新暦で行うのか旧暦に従うのか、

何もかもが急ごしらえの決まりごとで、地方には細かな指示が届かず、

地域ごとにまったく違う対応が取られることすらありました。

 

とくに寺社では、正月の祈祷や行事をどう扱うかで悩み、

「新暦で祝うべきか」「やはり月の巡りと一致している旧暦を守るべきか」

と信徒と共に頭を抱える姿が各地の古文書に残されています。

 

実際、田舎では旧正月を祝い続けた家々も多く、

新正月と旧正月を両方祝う地域がしばらく続くほど、

庶民の感覚にとって旧暦は生活そのものに根ざしていたのです。

 

また、人々をさらに戸惑わせたのは、季節と暦のズレでした。

 

旧暦の一月と新暦の一月は体感する季節が異なり、

農作業の区切りや漁の見立ても旧暦に合わせてきた地域では、

「暦は変わっても作物は旧暦で生きている」として、

しばらく旧暦を併用して生活した記録もあります。

 

町場では文明開化の風が吹き始めていたとはいえ、

暦の変更は日々の感覚と密接で、

年の始まりを「今日から変わる」と言われることの違和感は

今とは比べ物になりませんでした。

 

それでも大規模な暴動や反乱に至らなかったのは、

明治政府の中央集権体制が強力であったこと、

そして庶民が「決まった以上は従うしかない」と受け止めたからでした。

 

しかし、驚きや混乱、支払いの争い、行事の迷いは確かに存在し、

人々がざわついた年であったことは間違いありません。

 

改暦は便利のためではなく、政府の財政上の事情から急遽決断されたもので、

そこに暮らす多くの人々の生活実感とはずいぶん違っていました。

 

明治の改暦は、日本が近代化へ踏み出すための大きな変化であった一方、

何もかもが突然で、世の中の空気が落ち着かないまま年が明けてしまった、

そんな慌ただしい歴史の一コマだったのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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