
EXECUTIVE BLOG
2025.12.7
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 閏年の話しでした。
明日は 12月8日 太平洋戦争開戦記念日です。
その前日の様子の話に今日は 進みます、、、。
昭和十六年十二月八日の未明に
日本軍が真珠湾攻撃を開始し太平洋戦争が勃発しましたが、
そのわずか一日前である十二月七日の日本政府と軍部は、
これまでのどの日とも違う特別な緊張に包まれていました。
この日は正式な宣戦布告でもなく、
軍事行動発動の命令もまだ公表されていませんでしたが、
実際にはすでに全てが動き始めており、誰も後戻りできない状態になっていたのです。
政府の中心にいた東條英機首相兼陸相は、
朝から各省庁の要人を次々に呼び、
戦争準備が遅滞なく進んでいるかどうかを念入りに確認し続けていました。
東條は普段から感情を表に出さない人物として知られていましたが、
この日は側近の日記にも「疲労の色隠せず、焦燥の気配あり」と書かれるほど、
異様な緊迫感を漂わせていたと記されています。
海軍省では、山本五十六が立案した真珠湾攻撃作戦が予定通り実施できるかどうか、
最後の確認が行われていました。
連合艦隊から送られる位置情報電文の解析や、
攻撃地点周辺の気象状況のチェックが続き、
特に真珠湾周辺の天候は作戦の成功率に大きく影響するため、
参謀たちは米軍の無線傍受情報や民間気象台のデータまで集め、
細心の注意を払って判断を重ねていたのです。
すでに「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が受信されており、
攻撃開始日の最終確定もとれていたため、
海軍上層部はもはや作戦中止は不可能と覚悟を固めていました。
外務省では、対米交渉の最終文書、
すなわち「ハルノートに対する日本側回答文」の作成が大詰めを迎えていました。
この文書は実質的に交渉決裂の通告となるため、一字一句が慎重に検討されていました。
しかし外務省内は極めて混乱しており、暗号電信の作業が遅れ、
七日当日になっても最終文書のタイプ打ちが完了せず、
若い職員たちが徹夜で作業を続けるなど、組織的な疲労が限界に達していました。
この遅れが翌日の宣戦通告の遅延につながり、
世界史に残る外交上の失態として問題になりますが、
当時その危険を正確に理解していた者はほとんどいませんでした。
宮中でも深刻な空気が流れており、
木戸幸一内大臣は陛下への最終上奏に向けて東條首相と協議を重ねていました。
昭和天皇は開戦を避けたいというお気持ちを強く持ち、
七日にも「外交努力はなお尽くし得るか」と繰り返し尋ねられています。
木戸日記には「陛下の御憂慮深し」と記され、
和平の道が閉ざされつつある現実に対し、
深い悩みを抱かれていたことが明確に残っています。
一方、陸軍では南方作戦のための各部隊がすでに発進態勢に入り、
現地への暗号指令の最終確認が行われていました。
とくにマレー半島上陸を担当する部隊は七日午後には既に発進地点に到達し、
夜には完全待機の状態となっていたため、陸軍省内部も極度の緊張に包まれていました。
参謀本部では「一切予定通り進行すべし」との確認が繰り返され、
事実上引き返せない状況になっていたのです。
七日午後には東條内閣の四大臣会議が開かれ、
対米交渉が完全に決裂したことが正式に確認されました。
この会議では、通告文の提出時刻や作戦開始時刻の調整が議題となりましたが、
外務省側の文書作成遅延が問題視され、
東郷外相が苦しい説明を重ねていたと伝えられます。
アメリカ側では、日本の外交暗号をすでに部分的に解読していたため、
日本の動きが警戒を呼んでいましたが、
真珠湾攻撃の具体的な時刻まではつかめておらず、
防備態勢も完全な警戒状態には至っていませんでした。
夕刻になると、政府高官の多くは官邸や省庁に泊まり込み
、翌未明に予定される最終決断に備えました。
東條は夜遅くまで暗号電報の報告を受け続け、官邸を戦時体制に切り替え、
軍部と外務省との連絡が途絶えないよう準備を整えていたのです。
新聞社も七日の段階で「日米開戦は避けられない」と察知していましたが、
政府発表がないため紙面の準備ができず、
編集幹部たちは落ち着かないまま一夜を過ごしました。
市民の多くはまだ平時と変わらぬ生活を送っていましたが、
一部の軍需工場や港湾関係者は軍の秘密指示を受けており、
貨物の移動や航空機の準備が異様なほど多忙になっていたことが記録に残っています。
十二月七日の日本全体は、まさに嵐の前の静けさに包まれ、
不安と緊張が入り混じりながらも、
具体的に何が起こるのかを知る者はごくわずかしかいませんでした。
そして翌八日未明、真珠湾で最初の爆撃が行われ、
日本はついに運命の開戦へと踏み出すことになるのです。