
EXECUTIVE BLOG
2025.12.12
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは リメンバーパールハーバーをアメリカから見た視点でしたが、
今日は 日本からの視点についてに進みます、、、。
アメリカが真珠湾攻撃を「卑怯なだまし討ち」と捉え、
国民の怒りを一つにまとめていった一方で、
日本にはまったく違う物語が存在していました。
戦争をどう理解し、どのように自らの正当性を語るのか????
アメリカと日本は同じ出来事を全く異なる角度から見ており、
その違いが戦後まで続く大きな“物語の衝突”を生んでいったのです。
日本の指導部にとって、当時のアメリカとの関係は、すでに外交の限界が見えていました。
石油禁輸によって国家の生命線が断たれつつあり、交渉の期限も迫っていました。
「このままでは国が窒息する」という危機感が強く、武力行使がやむを得ないという空気が、政府や軍部の中で次第に共有されていきました。
日本側は
「自国を守るための防衛的な決断だった」と捉えており、
「追い詰められた末の戦争」という意識が強かったのです。
ここには、アメリカ側が描いた
「日本は突然狂ったように攻撃してきた」というイメージとは大きな隔たりがあります。
さらに日本は国際法上、宣戦布告を事前に届けようと手続きを進めており、
自国の行動はあくまで「正々堂々とした開戦である」という認識を持っていました。
結果として文書の提出が遅れたことが、
アメリカに「だまし討ち」という物語を作らせる材料となりましたが、
日本側には「そんなつもりはなかった」という思いが強く残りました。
ここで生まれたのが、日本とアメリカの間に横たわる大きな“認識ギャップ”です。
アメリカは
「裏切られた」「突然襲われた」という感情の物語を持ち、
日本は
「追い詰められた末の苦渋の決断であった」という物語を持っている。
この2つは同じ歴史的出来事を指しているにもかかわらず、
まるで別の世界の話のように食い違っていました。
戦争が始まってしまうと、こうした食い違いはさらに深まっていきます。
アメリカは
自国の損失と怒りを前面に押し出し、
日本は
「国の存亡をかけた戦い」という意識を国民に訴えました。
それぞれがそれぞれの“正義”を語り、
相手の主張はほとんど耳に入らない状態になります。
怒りに基づく物語と、危機感に基づく物語は、決して交わることがありませんでした。
実際、戦後になってもこのギャップは簡単には埋まりませんでした。
アメリカでは
今も真珠湾攻撃は「だまし討ち」として語られ、
映画やメディアの中で繰り返し再現されます。
一方、日本国内では
「避けられなかった戦争」「追い詰められていた時代」
という説明が広く行われており、
双方の物語は今もなお異なる形で受け継がれています。
歴史研究が進むにつれて、日本が攻撃を決意するまでの背景や外交的行き詰まり、
アメリカ側の警戒態勢の緩さについての議論が深まり、
より中立的な視点で見ようとする動きも生まれています。
しかし、国民の感情に深く根付いた物語は、そう簡単には変わりません。
とくにアメリカでは「Remember Pearl Harbor」という言葉が今日まで残り、
その感情的意味合いが歴史観を形づくり続けています。
一方で、日本もまた
「だまし討ちと言われるのは不本意だ」という心情を長く抱えてきました。
この感覚は、
日本人が真珠湾の話題になるたびに複雑な気持ちになる一因となっています。
つまり戦争をめぐる歴史とは、単なる出来事の記録ではなく、
その出来事をどう受け止め、どう語り継いできたかという
“物語の層”の積み重ねでもあるのです。
日本側の物語には、「国家としての存続を守ろうとした」という必死さがあり、
アメリカ側の物語には「不意を突かれた怒り」があります。
どちらが正しい・間違っているという単純な話ではなく、
両国がそれぞれの立場と感情を基に物語を形づくっていった結果、
深い溝が生まれたといえるでしょう。
この“物語の衝突”を理解することは、
単に歴史の勉強になるだけではありません。
現代でも国と国の関係は、事実そのものだけでなく、
それをどう語るかによって大きく変わっていきます。
誰もが自分の国の正義を信じたいと思うからこそ、
物語の違いは対立をより複雑にしてしまうのです。
歴史における日本とアメリカの物語のずれは、戦争の悲劇を生んだ要因であり、
同時に戦後の歩みのなかで丁寧に向き合わなければならなかった課題でもありました。
私たちが過去を振り返るとき、出来事そのものだけでなく、
そこに隠れた“語り方の違い”にも目を向けることで、
より広い視野を持つことができるのではないでしょうか。