
EXECUTIVE BLOG
2025.12.21
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
早いもので
明日は冬至です、、。
今日は 昔の人は 冬至をどのように捉えていたのか?
の話に進みます、、。
時代別に冬至の過ごし方を見ていくと、
その時代の暮らしや価値観、自然との向き合い方がよく表れています。
冬至は現代のように全国一律の行事として楽しむ日というよりも、
時代ごとに立場や生活環境に応じて受け止め方が異なっていましたが、
「太陽の力が最も弱まり、そこから再び強まっていく節目」
という認識は一貫して大切にされてきました。
まず平安時代の冬至ですが、この時代の冬至は庶民の生活行事というより、
主に朝廷や貴族社会において重視される日でした。
平安京の貴族たちは中国由来の陰陽道や暦の思想を強く取り入れており、
冬至は「一陽来復」の日として、非常に縁起の良い転換点と考えられていました。
陰が極まり、ここから陽の気が生じる日であるため、
政治や国家運営にとっても重要な意味を持つ日とされ、
宮中では冬至に合わせて特別な儀礼や祈りが行われていました。
天皇や貴族たちは、
この日に天地の調和が保たれるよう祈り、災厄が去り、世が安定することを願ったのです。
一方で、平安時代の一般庶民は、
貴族ほど暦や思想を体系的に理解していたわけではありませんが、
農耕社会の中で日照時間の変化を体感的に知っており、
冬至を過ぎれば少しずつ日が長くなることを、
厳しい冬を越える希望として受け止めていました。
食べ物や湯に特別な意味づけが広く行き渡るのはもう少し後の時代ですが、
冬至は静かに慎ましく過ごす日という意識は、この頃から根付いていたと考えられます。
次に鎌倉時代から室町時代にかけての冬至を見ると
、武家社会の成立とともに、冬至の受け止め方にも変化が現れます。
武士たちは実践的で現実的な価値観を重んじていましたが、
同時に陰陽道や仏教的な思想も生活に取り入れていました。
冬至は運気の切り替わりの日として意識され、
無理な行動を避け、身を慎む日とされることが多かったようです。
また、寺社では冬至に合わせて祈祷や法要が行われ、
地域の人々が一年の無事や来年の安寧を願って集まる機会にもなっていきました。
この頃になると、冬至を節目として心身を整えるという考え方が、
貴族や武士だけでなく、徐々に庶民の間にも浸透していきます。
江戸時代に入ると、
冬至は庶民の暮らしの中に深く根付いた年中行事として定着していきます。
江戸は暦と季節行事を非常に大切にした社会であり、
冬至もまた生活の知恵として広く受け入れられました。
この時代に、
現在でも知られている柚子湯や冬至かぼちゃの習慣が一般化したとされています。
銭湯文化が発達した江戸では、冬至の日に柚子を浮かべた湯を用意し、
「冬至湯」として人々に振る舞う風習が広がりました。
これは単なる縁起担ぎだけでなく、
寒さの厳しい時期に体を温め、病気を防ぐという実用的な意味合いも大きかったのです。
また、保存の利くかぼちゃを食べる習慣も、
栄養補給と無病息災を願う庶民の知恵として定着しました。
江戸の人々にとって冬至は、自然の流れを受け入れながら、
賢く冬を乗り切るための大切な生活の節目だったのです。
明治時代以降になると、太陽暦の導入によって暦の考え方は大きく変わりますが、
冬至の習慣そのものは失われることなく受け継がれていきました。
科学的に昼夜の長さが説明されるようになっても、
冬至が持つ「ここから光が戻る」という象徴的な意味は、
人々の感覚として残り続けました。
近代化が進む中でも、家庭では柚子湯に入り、
冬至かぼちゃを食べるという風習が続けられ、
冬至は忙しい日常の中で季節を感じる貴重な一日となっていったのです。
こうして時代ごとの冬至の過ごし方を振り返ると、形や表現は変わっても、
自然の循環を感じ、次の時期に備えるという本質は
一貫して変わっていないことが分かります。
平安の貴族が国家と天地の安定を祈り、武士が運気の転換を意識し、
江戸の庶民が健康と暮らしを守る知恵として冬至を大切にしてきたように、
現代の私たちにとっても冬至は、
立ち止まり、整え、次に向かうための静かな始まりの日であり続けているのです。