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2026.1.9
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
本日も 正月風物詩の話になります、、、、。
正月の風物詩として親しまれている「出初式」は、
消防が一年のはじめに“火の用心”と“備え”を内外に示すための儀式・演技披露の行事で、
起源は江戸時代の江戸にさかのぼります。
結論から言うと、出初式のはじまりは、明暦3年(1657)の「明暦の大火」を契機に、
万治2年(1659)1月4日、江戸の上野東照宮前で、
幕府直轄の火消組織である定火消が行った
「出初」の顔見せ・士気鼓舞の式だとされています。
当時の江戸は木造家屋が密集し、風が吹けば火が走る都市でした。
明暦の大火は市中を焼き尽くし、復興の只中にあった人々は、
再び火災が起きればどうなるのかという不安を抱えていました。
そこで、幕府は火消の体制整備を進めると同時に、
「我々には消火の力がある。新しい年も守り抜く」という意思を、
あえて正月の公の場で示す必要があったのです。
東京消防庁の解説では、
万治2年1月4日、
老中・稲葉伊予守正則が定火消4隊を率いて上野東照宮前で出初を行い、
その姿が復興期の江戸市民に希望と信頼を与えた、と説明されています。
この“見せる防災”という発想が、出初式の原型と言えます。
その後、定火消の出初は毎年1月4日に同地で行われるようになり、
次第に儀式化し、恒例行事として定着していきました。
一方で、出初式が単なる幕府の儀礼にとどまらず、
江戸の町の名物へと育っていくうえで欠かせないのが、
町人側の消防組織である町火消の登場です。
享保3年(1718)に町火消が設置されると、彼らは定火消の出初にならって、
1月4日に木遣歌を歌い、
梯子乗りなどを町内で行う「初出」という習わしを広げました。
ここで重要なのは、町火消にとって出初(初出)は、単なる“芸”ではなく、
実務と誇りが結びついた行為だったことです。
たとえば梯子乗りは、華やかな曲芸として見られがちですが、
国立国会図書館の解説では、
高い場所から周囲の状況を把握して消火活動を助けたことが始まりとされます。
つまり、火の見・現場把握という実戦的な目的を背景に持ちながら、
正月の場では「練度」と「統率」を見せる象徴的な演技へと洗練されていったわけです。
さらに、町火消は「まとい」を先頭に隊列を整え、木遣で気勢を上げ、
町を巡って関係先へ年賀の挨拶をするなど、
地域の秩序と連帯を可視化する役割も担いました。
そうした江戸の消防文化が、
出初式を“都市の安心を年頭に更新する儀式”へと押し上げていきます。
江戸から明治へ時代が移ると、消防制度そのものが大きく組み替えられます。
総務省消防庁の整理によれば、町火消は東京府に移管され、
明治3年(1870)に消防局が置かれ、町火消は改組されて消防組となり、
のちに消防事務は内務省、さらに東京警視庁へと移っていきました。
組織が近代行政の枠組みに入っていく中でも、
年頭に消防の士気と技術を示す出初式の精神は受け継がれ、
今日の「消防の祭典」という位置づけにつながっています。
なお、現代の出初式は自治体ごとに日程や形式は異なりますが、
概ね1月上旬に、消防署・消防団・関係機関が参加し、
部隊の観閲、車両行進、消防演技、一斉放水、
伝統技能の披露を組み合わせて行われるのが一般的です。
ここに込められているのは、単に“見て楽しい”という娯楽性だけではありません。
第一に、
年のはじめに「防災の体制が整っている」ことを住民に示し、安心をつくること。
第二に、
隊員側にとっては、節目として規律と士気を引き締め、技能を点検すること。
第三に、
地域社会にとっては、災害に立ち向かう人々への敬意と、
支える側の協力意識を共有することです。
もともと出初式は、焦土から立ち上がる江戸に対して、
火消が“今年も守る”と宣言する場でした。
その核は、時代が変わっても揺らぎません。
私たちが正月に出初式を眺めて「威勢がいい」「見事だ」と感じるとき、
実はそこには、火を恐れながら都市を営んできた歴史と、
備えを共同体の力に変えようとしてきた知恵が折り重なっています。
新年の空に上がる梯子と木遣の声は、単なる伝統行事ではなく、
災害の多い国で暮らす私たちが、
年の初めに“安全への約束”を確かめ合うための、
長い時間をかけて磨かれてきた社会の作法なのです。