
EXECUTIVE BLOG
2026.1.23
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
なぜ八女から多くのハワイ移民が生まれたのかという問いは、
単に海外へ出稼ぎに行った人が多かったという事実だけでは説明できません。
その背景には、明治という時代の厳しさと、八女という土地が持っていた社会構造、
そして人と人とのつながりが複雑に重なり合っています。
明治維新後、日本は急速に近代国家へと舵を切りましたが、
その変化のしわ寄せは地方の農村に強く及びました。
筑後地方に位置する八女市周辺は、古くから農業を基盤とする地域で、
米作りや茶の栽培、養蚕などによって生計を立てていました。
しかし農地は限られており、家族が増えるにつれて分家が進み、
一軒あたりの耕作地は次第に小さくなっていきました。
さらに地租改正によって年貢が現物納付から現金納付へと変わると、
農家は現金を得る必要に迫られますが、農産物の価格は安定せず、
洪水や冷害といった自然災害も多い地域であったため、
真面目に働いても生活が立ち行かない家庭が少なくありませんでした。
こうした中で、人々は
「土地にしがみつくだけでは未来が開けない」という現実を突きつけられていたのです。
一方、太平洋の向こう側ではまったく別の事情が進んでいました。
19世紀後半のハワイ王国では、
サトウキビ農園を中心としたプランテーション産業が急速に拡大し、
慢性的な労働力不足が深刻な問題となっていました。
そこで注目されたのが日本人労働者で、
勤勉で集団行動に慣れているという評価もあり、
日本政府との間で官約移民制度が始まります。
この制度では渡航費の負担が軽く、一定期間働けば賃金を得られ、
帰国も可能であることが明示されていました。
八女の人々にとってこれは、危険な博打ではなく、
現実的な生活再建の手段として映ったのです。
とはいえ、最初に海を渡る決断は簡単なものではありませんでした。
言葉も文化も違う土地へ行く不安は大きく、
家族や村を離れることへの迷いもありました。
しかし八女から最初にハワイへ渡った人々が、数年後に蓄えを持って帰郷し、
家を建て直したり、土地を買い戻したり、
弟妹を学校へ通わせたりする姿が現実のものとして目に見えるようになると、
状況は一変します。
あの家の長男がハワイで働いて家を支えた、あの人は無事に帰ってきた、
そんな具体的な成功例が村の中で語られ、
手紙によって詳しい情報が共有されていきました。
こうして八女では、血縁や地縁を軸とした縁故移民の流れが自然に形成されていきます。
誰かが行けば、その後を同郷の誰かが続き、
行った先ではまた八女出身者同士が助け合うという循環が生まれました。
八女の地域社会はもともと結びつきが強く、
寺や地域組織、青年団などを通じた相互扶助の意識が根付いていました。
そのため、渡航費の工面や情報の共有、帰国者からの体験談が一過性で終わらず、
次の世代へと引き継がれていきます。
さらにハワイ側でも、
八女出身者は真面目で忍耐強く、途中で投げ出さないという評価が定着していきました。
その評判が新たな雇用につながり、監督役を任される者も現れ、
同郷者を呼び寄せる流れが強まります。
こうして八女からハワイへの移民は、単なる個人の決断ではなく、
地域全体が共有する生き残りの戦略として定着していったのです。
重要なのは、彼らが故郷を捨てたわけではなかったという点です。
多くの八女移民は、
いずれ戻ることを前提に海を渡り、家族や村との関係を保ち続けました。
帰国する者、再び渡る者、現地に定住する者と進路は分かれましたが、
その根底には常に八女という故郷がありました。
このようにして築かれた八女移民のネットワークは、
のちにハワイの日系社会の基盤となり、
教育、宗教、経済、さらには報道や文化活動へと広がっていきます。
八女から多くのハワイ移民が出た理由とは、
貧しさだけでも、制度だけでもありません。
厳しい現実の中で未来を切り開こうとした人々の判断と、それを支え合う地域の力が、
海を越える大きな流れを生み出した結果だったのです。