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社長&顧問ブログ

2026.1.26

日系人社会

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

太平洋戦争という未曾有の危機の中で、

日系人は敵国人として疑われ、

強制収容や差別という深い傷を負いましたが、

 

その一方で、沈黙の中から立ち上がり、

米国社会で日系人の地位向上のために戦い続けた人々が確かに存在しました。

 

彼らの多くは最初から英雄として扱われたわけではなく、

むしろ差別の只中に置かれながら、

地道で忍耐強い行動を積み重ねてきた普通の人々でした。

 

戦時中、日系人の中には

「声を上げれば状況が悪化する」という恐怖を抱きつつも、

理不尽な扱いに異議を唱え、法廷で戦った人々がいました。

 

強制収容は憲法違反ではないのか、

市民権を持つ人間を裁判もなく拘束してよいのかという問いは、

当時のアメリカ社会では受け入れられにくいものでしたが、

それでも彼らは訴えを起こし、記録を残しました。

 

また戦後になると、日系人コミュニティの中から、

教育・政治・法律の分野に進む人々が現れます。

 

彼らは「自分たちが沈黙すれば、同じことが再び起こる」という危機感を共有し、

少しずつ公の場で語り始めました。

 

その象徴的な存在の一人が、

後に連邦議会で長く活動することになるダニエル・K・イノウエのような人物でしたが、

重要なのは彼一人ではなく、地方議会や市民団体、退役軍人会、教育現場など、

あらゆる場所で日系人が粘り強く信頼を積み上げていったという事実です。

 

彼らは怒りを前面に出すよりも、

「この国の制度の中で正当に評価される」ことを選び、

誠実さと継続的な努力によって、

少しずつ白人社会の見方を変えていきました。

 

では、白人社会は日系人や日本人をどのように見てきたのでしょうか。

 

戦前、アジア系移民は経済的競争相手として警戒され、

人種的偏見の対象でもありました。

 

勤勉であるがゆえに「仕事を奪う存在」と見なされ、

文化や外見の違いは「同化しない異質な集団」として誇張されました。

 

戦争が始まると、その警戒心は恐怖へと変わり、

日本人であるというだけで敵視される空気が一気に広がります。

 

多くの白人にとって、日系人は長年の隣人である以前に、

「顔の見分けがつかない敵国人」へと一括りにされてしまいました。

 

戦後、公式には戦争が終わっても、その感情がすぐに消えたわけではありません。

 

日系人が地域に戻ると、無言の距離や冷たい視線、雇用での不利な扱いが続きました。

しかし同時に、日系人が示した態度は、白人社会の中に少しずつ変化を生み出します。

 

声高に復讐や非難を叫ぶのではなく、

教育を受け、仕事で成果を出し、地域活動に参加し、

社会の一員として責任を果たす姿は、

「恐れていた敵」とは全く異なる現実を突きつけました。

 

やがて冷戦期を経て、日本が経済大国として台頭すると、

白人社会の日本人観も変化します。

 

恐怖や侮蔑の対象だった日本人は、

今度は経済的な競争相手として意識されるようになり、

尊敬と警戒が入り混じった複雑な視線を向けられるようになります。

 

その中で日系人は、「日本人でもありアメリカ人でもある」という立場から、

両者の間をつなぐ存在として期待されることも増えていきました。

 

ただし、それは常に好意的だったわけではありません。

国際関係が緊張すれば、再び疑いの目が向けられることもあり、

アジア系への偏見は形を変えて残り続けました。

 

現代において、白人社会の多くは

日系人を「模範的少数派」として評価する傾向がありますが、

その評価自体が新たな固定観念を生む危うさも含んでいます。

 

成功している一部の姿だけが強調され、

過去の差別や現在も残る見えにくい不平等が軽視されることがあるからです。

 

それでも、日系人が築いてきた地位向上の歴史は、

対立よりも対話を選び、怒りよりも持続的な行動を選んだ結果でした。

 

白人社会が日系人をどう見てきたかという問いは、

同時に、日系人がどう振る舞い、

どう信頼を積み上げてきたかという問いでもあります。

 

この歴史が示しているのは、差別提醒の社会においても、

個人と共同体の積み重ねが評価を変え得るという現実であり、

その道は決して平坦ではなかったという事実です。

 

過去の苦難と向き合いながら築かれた現在の地位は、

偶然ではなく、

多くの名もなき人々の忍耐と覚悟の上に成り立っているのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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