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2026.2.4
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 岡倉天心とその一番弟子横山大観の話しでした。
今日は 彼等に影響を与えたフェロノサの話に進みます、、。
フェロノサという名は、日本美術史において極めて特異で重要な位置を占めています。
彼は日本人ではなく、しかも画家でもありませんでしたが、
結果として岡倉天心と横山大観という二人の巨人を結び、
日本美術の進路そのものを決定づけた存在でした。
フェノロサは1853年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州に生まれ、
若くして哲学と美学に強い関心を持ち、
ハーバード大学でヘーゲル哲学や西洋美学を学びました。
彼は単なる美術愛好家ではなく、
「文明とは何か」「文化とはどこに宿るのか」
という根源的な問いを抱えた思想家でした。
明治維新後の日本は、西洋文明を急速に取り入れる一方で、
仏像や古絵画、古建築を「旧弊」として破壊し、
捨て去る廃仏毀釈の嵐の中にありました。
その状況を知ったフェノロサは、
近代化の名の下に自国の精神的遺産を失っていく日本に、
強い危機感と使命感を覚えます。
1880年、東京大学の前身である東京帝国大学に哲学教師として招聘された彼は、
日本に来るなり寺院や古社を巡り、仏像や屏風、絵巻、書の中に、
西洋には存在しない一貫した美的精神を見出しました。
それは「写実」ではなく「精神の表現」であり、
「物を描く」のではなく「気韻を描く」
という東洋独自の美の体系でした。
フェノロサは、日本美術を
「遅れた模倣」
ではなく、
「世界に対抗し得る独立した思想体系」
として初めて言語化した人物だったのです。
彼は政府に働きかけ、奈良や京都の古美術調査を行い、
失われかけていた国宝級の仏像や絵画を次々に保護対象として指定しました。
この活動が後の国宝制度の原型となります。
その過程で出会ったのが若き岡倉天心でした。
天心はフェノロサの通訳として行動を共にするうちに、
彼の思想に深く触れ、日本美術を
「過去の遺物」としてではなく、
「未来へ継ぐべき精神」として捉える視座を獲得していきます。
フェノロサの指導は、技法を教えるものではありませんでした。
彼が天心に教えたのは、
「日本人自身が日本美術の価値を言葉で説明できなければならない」
という覚悟でした。
西洋人の視点でありながら、
日本文化の核心を誰よりも鋭く見抜き、それを理論として整理する。
その姿は天心にとって衝撃であり、
日本人が自国文化を軽んじることの危険性を痛感させるものでした。
やがて天心は東京美術学校の設立に関わり、
フェノロサの思想を制度として具現化していきます。
その思想を、絵画という形で体現したのが横山大観でした。
フェノロサは大観に直接筆を取って教えることはありませんでしたが、
「絵は思想であり、精神である」
「形に囚われるな、生命を描け」という美学は、
天心を通じて大観の中に深く流れ込みました。
大観の朦朧体や余白を生かした表現は、
西洋的な遠近法や写実とは異なる、日本的精神性の可視化であり、
それはフェノロサが見抜いた東洋美の核心そのものでした。
フェノロサは後年、アメリカに戻り、
日本美術を西洋に紹介する講演や著作を続けましたが、
晩年には自らの遺骨を日本の土に葬ることを望んだと伝えられています。
それほどまでに彼の精神は日本と一体化していました。
日本人が自国の美を見失いかけていた時代に、
外から来た一人の思想家が、その価値を言葉と行動で示し、
日本人自身に「誇り」と「責任」を取り戻させた。
その思想が天心に受け継がれ、さらに大観の絵画として結晶した時、
日本美術は単なる伝統ではなく、
世界に向けて発信できる思想へと昇華したのです。
フェノロサとは、
日本美術を救った外国人というだけでなく、
日本人が日本であり続けるための「鏡」となった存在だったと言えるでしょう。