
EXECUTIVE BLOG
2026.2.5
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
フェノロサを日本に見出し、正式に招聘する決定的な役割を果たした人物は、
明治政府の中枢にいた森有礼です。
森有礼は初代文部大臣として知られていますが、
それ以前から欧米思想に通じた国際派官僚であり、
「日本が近代国家として自立するためには、西洋文明を学ぶだけでなく、
日本固有の精神と文化を理論化し直す必要がある」と強く考えていました。
森は在米・在英経験を通じて、
欧米の知識人社会において“日本を理解し得る他者”の存在が
どれほど重要かを痛感しており、単なる技術教師ではなく、
「思想と美学の分野で日本文化を客観的に評価し、言語化できる人物」
を探していました。
その中で白羽の矢が立ったのが、ハーバード大学出身で哲学・美学を専門とし、
東洋思想への関心を深めていたフェノロサでした。
森は彼の思想的資質と理論構築能力を高く評価し、
1880年、東京大学(当時は東京帝国大学の前身)に哲学教師として招聘します。
つまりフェノロサは
「日本美術研究のために呼ばれた外国人」ではなく、
「近代国家日本の精神的基盤を再構築するために迎え入れられた知識人」だったのです。
日本滞在中のフェノロサは、政府の信任を背景に、
奈良・京都を中心とする古美術調査に従事し、
廃仏毀釈によって破壊されつつあった仏像・絵画・工芸品の価値を、
近代国家の制度と言語によって可視化していきました。
この調査において通訳・補佐として行動を共にしたのが岡倉天心であり、
ここから日本美術思想の明確な継承関係が生まれます。
フェノロサは日本美術を「保存すべき骨董」ではなく、
「世界に提示し得る思想体系」として捉え直し、
それを日本人自身が自覚すべきだと説きました。
この立場は森有礼の国家観とも深く共鳴しており、
フェノロサ招聘は偶然ではなく、明治日本の知的戦略の一環だったと言えます。