
EXECUTIVE BLOG
2026.2.6
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは フェロノサを招聘した 森有礼のはなしでした。
今日は この森有礼の話しの続きに進みます、、、、
森有礼は、明治日本が近代国家として立ち上がるその根幹に、
思想と制度の両面から深く関わった人物です。
1847年、薩摩藩に生まれた森は、藩校教育の中で朱子学を学びながらも、
若くして西洋の学問や思想に強い関心を抱き、英学へと傾倒していきました。
明治維新前後には米国や英国に渡り、
近代国家がどのような原理で社会を組み立て、
人々を教育し、公共性を保っているのかを、現場で体験します。
そこで森が強く確信したのは、
日本の近代化は単に技術や制度を輸入するだけでは成り立たず、
人々の考え方や価値観、つまり国民精神そのものを教育によって
再設計しなければならない、ということでした。
彼にとって教育とは、知識を教える場ではなく、
国家を支える市民を育てる装置だったのです。
明治政府に参加した森は、外交官として駐米公使、駐英公使を歴任し、
西欧の知識人社会と直接交流する中で、
日本が国際社会の中で理解されるためには、
日本文化を
感情ではなく理論や思想として語れる存在が必要だという現実にも直面します。
この経験が、
後に彼が外国人知識人を積極的に招聘しようとする発想につながっていきます。
1885年、初代文部大臣に就任した森は、
教育制度の抜本的な整備に着手しますが、
その改革は単なる制度づくりにとどまりませんでした。
教育勅語が出される以前の段階で、
国家としての教育理念や規律、体系の基礎を構想し、
師範学校を整備して教師養成を国家事業として位置づけ、
初等から高等教育までが連続する学校制度を整えました。
また、体育や規律を重視し、心身の鍛錬を教育の中核に据えると同時に、
共通語や国語教育を推進して、国民統合のための言語的基盤を築こうとしました。
これらの政策は当時から厳格すぎる、合理主義に偏りすぎている
といった批判を受けましたが、
短期間で近代国家の市民を育成するという点では、
極めて戦略的で現実的な判断だったとも言えます。
こうした森の思想が象徴的に表れたのが、アーネスト・フェノロサの招聘でした。
森は、西洋の学問体系を理解しながら、
日本文化を思想的・美学的に評価できる人物を探し、
フェノロサに白羽の矢を立てます。
それは単なる美術教師の招聘ではなく、
西洋の眼を通して日本の価値を再発見し、
それを日本人自身に理論として返すという構想でした。
この流れは、岡倉天心や横山大観へとつながり、
近代日本美術の思想的基盤を形づくっていくことになります。
森の宗教観もまた、当時としてはきわめて先鋭的でした。
彼は国家の中立性を重視し、宗教は個人の内面に属するものだと考えました。
神道を国家儀礼として整理しつつも、
教育や政治は理性と法に基づいて運営されるべきであり、
宗教的情緒に依存した統治には強い警戒感を示していました。
この姿勢は、
後に国家神道が形成されていく以前の過渡期を理解する上で
重要な視点を与えてくれます。
1889年、森有礼は大日本帝国憲法発布式当日に刺殺され、
その生涯を突然閉じることになります。
急進的な改革に対する反発が背景にあり、彼の評価は長く分かれてきました。
強権的で西欧偏重、伝統を軽視した人物とする批判がある一方で、
短期間で教育、言語、制度という国家の根幹を設計した
先見性を評価する声も強まっています。
現在では、森は日本の近代教育の設計者であり、
思想を伴って国家建設を構想した稀有な存在として再評価されつつあります。
森有礼は単なる制度官僚ではなく、国家とは何か、国民をどう育てるのか、
文化をどこに位置づけるのかという根源的な問いに、
思想と実務の両面から向き合った人物でした。
フェノロサ招聘に象徴されるように、
外からの知性を用いて日本の内なる価値を言語化し直そうとしたその姿勢は、
近代日本における思想の交通整理役だったと言えるでしょう。