
EXECUTIVE BLOG
2026.2.9
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 森有礼の暗殺から 教育勅語が制定されて行く話でした、、。
今日は その教育勅語について、、、。
教育勅語を実質的に考え、文章としてまとめた中心人物は、井上毅です。
ただし、教育勅語は一人の思想で作られたものではなく、
当時の政治状況と危機感の中で、
複数の人物の考えが重なって成立した国家文書でした。
まず整理すると、構想と思想の核にあったのが元田永孚、
それを近代国家にふさわしい文章に練り上げたのが井上毅、
そして最終的に自らの言葉として発布したのが明治天皇です。
役割分担がはっきりした共同作業だったと言えます。
元田永孚は、明治天皇の侍講を務めた儒学者で、天皇の精神教育を担っていました。
彼は、近代化が進む中で、日本社会から
「親を敬う心」「家族を大切にする心」「上下の秩序」
といった道徳が失われつつあることに強い危機感を持っていました。
西洋の学問や制度を取り入れること自体には反対していませんでしたが、
それによって日本人の精神的な軸が崩れることを恐れていたのです。
そのため元田は、「
日本には日本固有の道徳が必要であり、それを天皇の言葉として国民に示すべきだ」
と考えました。
これが教育勅語の思想的な出発点です。
一方、井上毅は憲法制定にも深く関わった法制官僚で、
非常に現実的かつ慎重な人物でした。
彼は、元田の儒教的・道徳的な考えをそのまま文章にすれば、
近代国家として国際的に誤解される危険があることを理解していました。
そこで井上は、
「宗教色を極力抑え」「法律でも宗教でもない」「道徳の指針」
という形に文章を整えていきます。
忠孝や家族道徳を中心にしながらも、露骨な神学的表現を避け、
国家の安定に資する文言へと調整したのが井上毅でした。
では、なぜそのような教育勅語が必要とされたのでしょうか。
その最大の理由は、
森有礼の暗殺をはじめとする、近代化に対する激しい反発でした。
急速な欧化政策の中で、
「日本はどこへ向かうのか」「精神的な支柱が失われているのではないか」
という不安が社会全体に広がっていました。
政府としても、
これ以上国民の精神を不安定にさせるわけにはいかないという切迫感があったのです。
そこで打ち出されたのが、教育勅語でした。
教育勅語は、法律ではなく、宗教でもなく、
「天皇が国民に示す生き方の基本」として位置づけられました。
これにより、近代的な憲法体制と両立しつつ、
国民の精神を一つにまとめる役割を果たそうとしたのです。
言い換えれば、教育勅語は、
自由と近代化が進みすぎて社会がばらばらになることを防ぐための
「精神の接着剤」でした。
重要なのは、教育勅語が生まれた背景には、
「国民を縛り付けるため」だけではなく、
「国家が壊れることへの恐れ」があったという点です。
近代化のスピードに人の心が追いつかず、
思想の衝突がついに森有礼暗殺という形で噴き出した。
その反動として、
「これ以上の分裂は許されない」という思いが、
教育勅語という形を取ったのです。
つまり教育勅語は、誰か一人の強い思想の押し付けではなく、
近代日本が抱えた不安と恐怖の中から生まれた、
極めて政治的で現実的な文書でした。
その成り立ちを知ると、教育勅語は単なる善悪で語れるものではなく、
明治という時代そのものを映す鏡であったことが見えてきます。