
EXECUTIVE BLOG
2026.3.3
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 二・二六事件から 陸軍三長官の話しでした。
今日もこの続きと行きたかったのですが
三月に入りました
そして 今日は 三日 ひな祭りです。
今日はひな祭りに関する話になります、、。
三月三日のひな祭りは、日本の五節句のひとつ「上巳の節句」にあたり、
女の子の健やかな成長と幸せを願う行事として今日まで受け継がれてきました。
しかし、その起源をたどると、
現在の華やかな雛人形の姿とはかなり異なる、
静かな祓いの儀式に行き着きます。
もともと三月三日は、中国から伝わった「上巳節」に由来します。
古代中国では三月最初の巳の日に川辺で身を清め、穢れを祓う習わしがありました。
これが日本に伝わったのは奈良時代とされ、宮中行事として取り入れられます。
やがて日付は三月三日に固定され、日本独自の発展を遂げました。
日本では古来より「形代」という風習がありました。
紙や草で人の形を作り、自分の穢れや災厄を移して川や海に流すというものです。
これが「流し雛」の原型です。
現在でも鳥取県などではこの風習が残っています。
人形はもともと遊び道具ではなく、
災いを引き受けてくれる依り代だったのです。
一方、平安時代の貴族社会では「ひいな遊び」という人形遊びが流行していました。
紙や布で作った小さな人形を使い、ままごとのような遊びをしていたと伝えられます。
この遊びの文化と、厄払いの形代信仰とが結びつき、
やがて「雛人形を飾る」という現在の形に発展していきました。
室町時代になると、次第に人形は精巧になり、武家社会にも広がります。
さらに江戸時代に入ると、
三月三日は幕府によって「五節句」のひとつとして公式行事に定められました。
五節句とは、一月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、
七月七日(七夕)、九月九日(重陽)です。
これにより、ひな祭りは庶民の間にも広く浸透していきました。
江戸時代には豪華な段飾りが発達します。
内裏雛と呼ばれる男雛・女雛を中心に、
三人官女、五人囃子、随身、仕丁などが並びます。
これは単なる装飾ではなく、当時の宮廷文化を模した世界観を再現したものです。
ひな壇は一種の「理想の宮廷空間」であり、
そこに子どもの未来の幸せや良縁への願いが込められていました。
ひな祭りが「女の子の祭り」として定着したのは江戸時代以降です。
武家や町人の家庭では、娘が生まれると雛人形を用意し、初節句を盛大に祝いました。
人形は災厄の身代わりであると同時に、嫁入り道具のひとつとも考えられました。
そのため、母から娘へ、さらに孫へと受け継がれることもありました。
また、この時期は桃の花が咲くことから「桃の節句」とも呼ばれます。
桃は古来より邪気を祓う力があると信じられてきました。
『古事記』や『日本書紀』にも、桃が魔除けとして登場します。
桃の花を飾るのは、単なる季節の風情ではなく、
厄除けの意味を持っているのです。
食文化にも象徴が込められています。菱餅は赤・白・緑の三色で、
赤は魔除け、白は清浄、緑は健康や長寿を表します。
ひなあられも同様に四季を象徴する色が使われます。
はまぐりのお吸い物は、対になった貝殻がぴたりと合うことから、
良縁や夫婦和合を意味します。
ちらし寿司には
海老(長寿)、れんこん(見通しの良さ)など縁起物が散りばめられます。
明治以降、西洋文化の流入や生活様式の変化により、
ひな祭りの形も少しずつ変化しましたが、
「子どもの無事成長を願う」という核心は変わっていません。
戦後は住宅事情の影響もあり、七段飾りよりも親王飾りが主流となりました。
現代ではコンパクトな飾りや、木目込み人形、さらにはガラスケース入りなど、
多様な形態が見られます。
重要なのは、ひな祭りが単なる行事ではなく、
「祈りの文化」であるという点です。
もともとは厄を祓い、健やかな未来を願う儀式でした。
人形はその願いを託す象徴です。豪華さや形式よりも、
その背後にある思いこそが本質と言えるでしょう。
三月三日は、春の訪れを感じる季節でもあります。
寒さが和らぎ、草木が芽吹き始める頃に、子どもの成長を重ね合わせる。
自然の循環と人の人生を重ねる感性が、この行事には込められています。
ひな祭りの歴史は、中国の祓いの風習に始まり、
日本の形代信仰、平安貴族の人形遊び、江戸幕府の制度化を経て、
現代へと受け継がれてきました。
その姿は時代とともに変わりながらも、
「穢れを祓い、未来を願う」という根本精神は一貫しています。
三月三日、雛人形を前にして手を合わせるとき、
そこには千年以上にわたる日本人の祈りの歴史が静かに流れているのです。