
EXECUTIVE BLOG
2026.10.3
高光産業株式会社
妹尾八郎です
昨日は、高村光太郎についての話しでした。
彫刻家であり、詩人でもあった人でしたね、、、。
そして、その人生を語る時、
どうしても忘れることのできない女性がいました。
それが、高村智恵子です。
『智恵子抄』という名前は知っていても、
「智恵子とは、どんな人だったのか」
「その後、どうなったのか」
そこまで詳しく知っている人は意外に少ないのではないでしょうか。
私も調べていくうちに、
『智恵子抄』の中の女性というだけではない、
一人の芸術家として生きた智恵子の姿が見えてきました。
智恵子は1886年、現在の福島県二本松市に生まれました。
日本女子大学校で学び、その後、洋画家を目指して東京に残ります。
太平洋画会研究所で絵を学び、
1911年には、
女性たちによる雑誌『青鞜』の創刊号の表紙絵も手がけています。
つまり智恵子は、単に「有名な詩人の妻」になった女性ではありません。
自分自身も、「芸術で生きたい」という強い思いを持った人でした。
そんな智恵子が高村光太郎と出会います。
彫刻家であり、詩人である光太郎。画家を志す智恵子。
二人は芸術を通して惹かれ合い、
1914年から駒込林町のアトリエで生活を始めました。
しかし、生活は決して楽ではなかった二人の生活は、
華やかな芸術家夫婦の生活ではありませんでした。
経済的にも決して余裕はありません。
それでも、
光太郎は彫刻や詩をつくり、智恵子は絵を描く。
二人で芸術を追い続けました。
ところが、
智恵子の人生に少しずつ大きな変化が起こります。
智恵子にとって大きな出来事の一つが、実家・長沼家の破産でした。
1929年。傾いていた実家が破産し、家族は離散します。
智恵子にとって福島の故郷は、
単なる生まれ故郷ではなかったのでしょう。
有名な、「東京には空が無い」という言葉。
そこには、東京で暮らしながらも、
故郷・安達太良山の空を思う気持ちがありました。
その故郷の家が崩れてしまう。家族がばらばらになる。
それは、
智恵子の心に大きな影を落としたのではないかと考えられます。
ただし、
心の病に一つだけの原因を求めることはできません。
実家の破産だけが原因だったわけではありません。
身体の弱さ。生活の不安。芸術家として生きる難しさ。
さまざまな負担が重なる中で、
1931年頃から心の状態に大きな変化が現れるようになります。
翌1932年。
智恵子は睡眠薬を服用し、自ら命を絶とうとします。
幸い命は助かりました。
その後、光太郎は智恵子の回復を願い、
一緒に東北の温泉などを巡ります。
しかし、
病状は改善しませんでした。
やがて1935年、
智恵子は東京・南品川のゼームス坂病院へ入院します。
夫婦は、同じ家で暮らすことができなくなりました。
それでも、智恵子の中から「芸術」は消えなかった
ここからが、私にはとても心に残りました。
心の病を患い、絵を描くことも難しくなった智恵子。
しかし、彼女の中から、
表現したいという気持ちまで消えたわけではありませんでした。
病院で智恵子が始めたのが、紙絵でした。
色紙や千代紙を、はさみで切る。
そして、紙の上に配置していく。
花。果物。魚。植物。さまざまな形。
智恵子は、病室の中で紙絵を作り続けました。
残された作品は、千数百点にのぼります。
私はここに、
智恵子という人の本当の強さを見るような気がします。
絵筆が使えなくなっても、絵を描けなくなっても、
別の方法で表現する。
できなくなったことがあっても、
その人の中にあるものまで失われるわけではない。
表現する方法を変えれば、まだできることがある。
これは、芸術だけの話ではないと思います。
年齢を重ねれば、
若い頃と同じようにできないことも出てきます。
仕事でも、生活でも、体力でも、少しずつ変わっていきます。
病気や環境の変化によって、それまで当たり前にできていたことが、
できなくなることもあります。
その時、
「もう自分には何もできない」と思ってしまうことがあります。
しかし、智恵子は違いました。
油絵ではなく、紙絵。
大きなアトリエではなく、病室。
それでも、
自分の中にあるものを表現し続けたのです。
智恵子の紙絵を知ると、
そんなことを教えられるような気がします。
智恵子が入院した後も、光太郎は彼女のもとへ通いました。
智恵子が作った紙絵は、
光太郎に見せるためにつくられたものでもあったと、
現在の二本松市の企画展でも紹介されています。
言葉で気持ちを伝えることが難しくなった智恵子でしたが、
その代わりに、
紙を切り、色を組み合わせ、一枚の作品にする。
もしかすると、
それが光太郎との新しい会話だったのかもしれません。
言葉がなくても、
人は何かを伝えることができるです。
私は、この二人の関係にとても深いものを感じます。
そして、1938年10月5日。智恵子は亡くなりました。
死因は、長く身体を蝕んでいた粟粒性肺結核でした。
52歳でした。
光太郎よりも18年ほど早い死でした。
夫婦として一緒に過ごした時間は、そこで終わります。
しかし、
智恵子と光太郎の物語は、そこで終わりませんでした。
智恵子が亡くなって3年後の1941年。
光太郎は、それまで智恵子について書いてきた詩をまとめ、
『智恵子抄』を刊行します。
つまり、『智恵子抄』は、
単なる夫婦の恋愛の記録ではありません。
出会った時。恋をした時。一緒に暮らした時。病を患った時。
そして、
亡くなった後。
そのすべてを含んだ、一人の人を思い続けた記録なのです。
智恵子が亡くなった後、光太郎は再婚しませんでした。
1945年には東京大空襲でアトリエを失い、岩手県花巻へ疎開します。
その後、山口という場所の小さな山小屋で、
約7年間、農耕と自炊をしながら一人で暮らしました。
そして1956年、光太郎は東京で亡くなります。
73歳でした。
智恵子が亡くなってから、約18年。
それでも、光太郎の人生から智恵子が消えることはありませんでした。
ここで私は考えました。
人は亡くなれば、確かに会うことはできなくなります。
声も聞けない。一緒に食事もできない。話をすることもできない。
しかし、
その人との時間まで消えるわけではありません。
一緒に見た景色。交わした言葉。笑ったこと。
喧嘩したこと。心配したこと。助けてもらったこと。
それらは、
残された人の中に残ります。
光太郎にとって智恵子は、亡くなった後も、
自分の人生の中に生き続けていたのではないでしょうか。
若い頃、人を愛するということは、一緒にいることだと思います。
しかし、
長い人生を見ていると、それだけではないのかもしれません。
相手が病気になった時。
思うように会話ができなくなった時。
一緒に暮らせなくなった時。
そして、
先に亡くなってしまった時。
それでも、その人を自分の人生の中から消さない。
それもまた、一つの愛なのだと思います。
智恵子は東京には空がないと言いました。
そして、
故郷の安達太良山の空を、「本当の空」だと思いました。
今、改めてその言葉を考えると、
単なる風景の話ではないような気がします。
人には誰でも、
心が帰っていく場所があります。故郷かもしれない。
家族かもしれない。愛する人かもしれない。
そこへ戻れば、自分が自分でいられる。
そんな「心の空」が、
誰にでもあるのではないでしょうか。
智恵子は、
大きな名声を得た画家にはなりませんでした。
心の病も患いました。
人生の最後は、病院で過ごしました。
しかし、
彼女は何も残さなかった人でしょうか。
違います。
千数百点の紙絵を残しました。
光太郎の詩の中に、たくさんの言葉を残しました。
そして今も、
『智恵子抄』を読む人の心に、
智恵子という一人の女性が生きています。
夢がかなわなかった時間もある。
病気になった時間もある。
できなくなったこともある。
それでも、
その中で何かを残すことはできます。
私が朝歩いている谷根千の町。
そこから高村光太郎を知り、
そして智恵子という一人の女性の人生を知りました。
調べれば調べるほど思います。
歴史に残る人も、私たちと同じです。
夢があり、悩みがあり、思うようにならないことがあり、
それでも一日一日を生きた。
そして、
思うようにならなかった人生の中にも、
その人にしか残せないものがある。
智恵子の紙絵は、
そのことを静かに教えてくれているような気がします。
できないことが増えても、できることまでなくなるわけではない。
人生の形が変わっても、その人らしさまで失われるわけではない。
そして、
愛する人がいなくなっても、
一緒に生きた時間までなくなるわけではない。
『智恵子抄』の向こう側には、
そんな一人の女性の人生がありました。
そして次に、私はもう一人、
高村光太郎を語るうえで
忘れてはならない人物について知りたくなりました、、、、、、。
それは??????
明日に続く、、、、。