EXECUTIVE BLOG
2025.6.10
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 御朱印巡りのマナーなどの話しでした。
今日はこの続きとなります、、。
巡りという文化は、今や観光の一つとしても広く知られるようになりましたが、
もともとは信仰心から始まった、日本らしい穏やかな風習です。
お寺や神社を訪れた際に、参拝の証として御朱印をいただくこの習慣には、
宗派を問わず訪ね歩くという大らかさがあります。
さらに、日本では神仏習合という伝統があり、
神社とお寺を行き来することが当たり前とされてきました。
神道と仏教という違う宗教を自然に受け入れ、共に信仰してきた日本の文化は、
世界的に見てもとても珍しく、また貴重な精神のあり方だと思います。
現代の御朱印巡りもまた、寺の宗派の違いなどを問わず、
自由に参拝し、御朱印をいただくことができる点に、
その寛容で調和的な精神が息づいています。
そうした文化を見ていると、ふとある「妄想」が浮かんできました。
それは、御朱印巡りをもっと広げて、仏教や神道だけでなく、
キリスト教の教会やイスラム教のモスクにも拡大し、
宗教の違いを越えて人々が敬意をもって訪ね合い、平和の架け橋となるような巡礼ができたら素晴らしいのではないかという夢です。
世界中には、宗教の違いによって対立したり、時に争いが起きてしまう現実があります。
それぞれの宗教が持つ信念や教えは大切にすべきですが、
その違いを否定し合うのではなく、互いの文化を尊重し合うきっかけとして、
御朱印巡りのような「訪れて、敬意を表し、記念として印をいただく」という行為が、
世界でも行われるようになれば、
人と人とが分かり合う小さな種になるのではないかと思うのです。
たとえば、日本のある地域から始めて、地域内の神社や寺だけでなく、
キリスト教の教会やイスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグなどにも訪問し、
それぞれの信仰の場で静かに敬意を払い、その証として御朱印のような印をいただく。
そうした巡礼のスタイルが確立されれば、地域の文化的交流にもなりますし、
多宗教共存のモデルケースとして世界にも発信できるのではないかと思います。
「そんなの無理に決まってる」と思われるかもしれませんが、
日本において神社とお寺が共存している現実を見れば、決して不可能とは言い切れません。
かつては神様と仏様が一つの敷地に祀られていた歴史がありましたし、
庶民は深く宗派にこだわることなく、
地域の守り神やお地蔵さまに手を合わせてきたのです。
そのような心の柔らかさが、今も御朱印文化に残っています。
この日本の信仰のあり方、つまり「宗教を問わず、敬い、祈る」姿勢を、
現代的な形にして世界に広めることができれば、
宗教の違いを超えて人々が繋がる大きな可能性が開かれるかもしれません。
宗教というと、何となく重苦しくとらえられがちですが、
御朱印巡りのように楽しみながら、学びながら、尊びながら行うことで、
信仰と共に暮らすことの自然さや豊かさを再認識できるのではないでしょうか。
小さな町の小さなお寺から、小さな教会、小さなモスクへと足を運び、
静かに祈り、言葉を交わし、印を頂く。
その一つ一つが平和の実践となっていく。そう考えると、
ただの妄想とも言い切れない気がしてきます。
世界平和というと、壮大すぎて自分には関係ないように思えるかもしれませんが、
誰かが違いを認め合い、歩み寄る一歩を踏み出せば、
その小さな一歩がやがて大きな流れになるかもしれません。
御朱印という文化が持つ柔らかくも深い精神を、日本から世界へ発信していくことで、
宗教が分断を生むのではなく、出会いと対話の場となる時代が来ることを、
夢見てやみません。
妄想話はこれくらいにして
京都には色々な銅像がありますね
その中でも これは一体何??? と思う銅像が
ある駅前にドーンと鎮座してます
その話しは、、、
明日に続く、、、、。