EXECUTIVE BLOG

社長&顧問ブログ

2025.6.8

宗派は違うのに

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 神社仏閣を回る時に頂く 御朱印の話しでした。

京都では 清水寺から知恩院とかを回っている方が多いですね、、、

 

しかし ここで 不思議に思うのは 清水寺 知恩院 金閣寺などは

同じ仏教とは言え 禅宗だったり浄土宗だったり 更には 禅宗でも違う

宗派の寺を御朱印貰う為に皆回っているのです。

 

もし これがイスラムの人が見たら 驚くに違いないと思うのです。

 

よくよく考えたら節操がないと思いますね

 

しかし 何故これがまかり通っているのか????

が 今日の話しとなります、、、。

 

御朱印を集めて寺社を巡るときに、

「宗派の違うところをあちこち回るなんて、節操がないのではないか」

と感じる方が居るかもしれませんね、、、。

 

これはとてもまっとうで誠実な疑問だと思うのです。

 

信仰というものは、本来はひとつの教えを大切にし、

真剣に向き合うものという意識があるからこそ、そうした気持ちが芽生えるのだと思います。

 

確かに、宗派によって仏教の教えや考え方、祀っている仏様は異なり、

それぞれに深い意味があります。

 

そうした違いをよく知っている人ほど、あちこちの宗派にまたがって御朱印をもらい歩くことに、心の引っかかりを覚えるのも無理のないことだと思います。

 

しかし、日本の宗教文化をよく見てみると、

実は古くから「神様も仏様も、どちらも敬う」という非常に寛容な信仰の形が根付いてきたことがわかります。

 

たとえば、神社とお寺が一緒に建てられていた時代があり、

明治以前は神仏が一緒に祀られる「神仏習合」がごく普通のことでした。

 

八幡神と阿弥陀仏、天照大神と大日如来が並んで祀られていたり、

神社の中に仏像があったりするようなことが、当たり前だったのです。

 

こうした背景があるからこそ、現代の日本人は宗派や神仏の違いにあまりこだわらずに、「ありがたい存在」として広く敬意を持って拝むことが自然と身についているのです。

 

御朱印も、そのような「敬意の形」の一つです。

 

もともとは写経をお寺に納めた証として与えられていたもので、

「このお経を写し、心を込めて仏様に奉納しました」という行為への記録でした。

 

それが江戸時代以降、参拝そのものの証として広がり、現代では写経をしなくても、

手を合わせ、願いや感謝の心を込めてお参りすれば、御朱印をいただけるようになりました。

 

つまり、御朱印は「スタンプラリー」ではなく、「あなたの信仰の足あと」なのです。

宗派が違っていても、その場その場で真心をこめて手を合わせるならば、

そこに込められた信仰の気持ちは、十分に意味のあるものだと言う事になります。

 

もちろん、宗派の教えにはそれぞれ特徴があります。

 

浄土真宗では他の宗派の修行を必要とせず、念仏を唱えることだけで極楽浄土に生まれ変わるとされていますし、

日蓮宗では法華経こそが唯一の正しい教えとされています。

 

そうした教義の違いを踏まえると、

「この教えを大事にするなら、他の宗派の仏様を拝んでもいいのか?」

という迷いが出てくるのも自然なことです。

 

ただ、それでも多くの方が、

違う宗派のお寺を訪れ、静かに手を合わせ、御朱印を受け取るという行為を通じて、

自分なりに信仰や感謝の気持ちを深めています。

それはむしろ、自分の信仰に対して柔らかな姿勢で向き合い、学びを広げようとする前向きな歩みであるとも言えます。

 

また、御朱印を通して、そのお寺のご本尊や宗派について知るきっかけができるのも、

大きな魅力です。

 

「このお寺は阿弥陀如来を祀る浄土宗なのか」「ここは禅宗の釈迦如来なんだ」と、

訪れることで自然と仏教への理解が深まり、結果的に自分の信仰をより大切にできるようになることも多いのです。

 

現代の御朱印巡りは、信仰と観光の中間のような位置づけとも言えます。

完全な宗教修行ではないけれど、単なる遊びでもありません。

 

だからこそ、何より大切なのは「心のあり方」です。

どの寺でも、どの神社でも、そこに祀られる存在に敬意を払い

、静かに手を合わせる心を持っていれば、宗派の違いにとらわれる必要はないと言う事になるのだと思います。

 

節操という言葉は、確かに「一貫性」や「誠実さ」といった意味を持ちます。

その観点から見れば、

あちこちの寺を回って御朱印をもらうことが「一貫性に欠ける」と映ることもあるかもしれません。

でも、もしどの寺社にも誠意を持って向き合い、それぞれの場で心を込めて参拝しているのであれば、

それは「節操がない」のではなく、

「誠意ある多様な信仰のかたち」と見ることもできるのです。

 

仏教の教えそのものが、

「すべての命に慈しみを持つこと」「心を清めて生きること」を大切にしているのですから、そこに通う心が整っていれば、その道はきっとまっすぐにつながっていくと思います。

 

「これで良いのだろうか」と疑問を持つことも、信仰の大切な一部です。

迷いながらも手を合わせる、その一歩一歩が、信仰を育てていく力になります。

誠実な気持ちを忘れずに、それぞれの神仏と丁寧に向き合いながら、

御朱印の旅を楽しむと、

それはきっと、心を深めるとても豊かな時間になることだと思うのです。

 

明日は 王道の廻り方、、、、

 

に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

次の記事へ
前の記事へ