EXECUTIVE BLOG
2025.6.12
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 京都三条駅で 京都御所に向かって土下座している
高山彦九郎の話しでした、、、、。
高山彦九郎は、江戸時代中期に生きた尊皇思想家であり、
寛政の三奇人の一人として数えられる人物です。
彼は幕末の尊王攘夷思想の源流をなす人物でもあり、その過激なまでの行動や純粋なまでの信念から“狂人”とすら見なされることもありました。
中でも特に有名なのが、京都で足利尊氏の墓を鞭で打ったという出来事です。
この行動は、単なる暴挙ではなく、彼の心の奥底にあった強い政治的・道徳的な理念の発露でもありました。
高山彦九郎は1747年、上野国新田郡(現在の群馬県太田市)に生まれました。
幼いころから学問と武芸を修め、やがて江戸に出て朱子学や国学に親しみ、
特に尊王の思想に傾倒していきます。
時代は徳川幕府の支配する中で、天皇の権威は名目上の存在に過ぎず、
政治の実権は幕府が完全に掌握していました。
そうした時代において、
彦九郎は「本来の国家のあるべき姿は、天皇中心であるべきだ」とする考えを徹底的に追求していたのです。
彼の行動の中で最も象徴的とされるのが、足利尊氏の墓を鞭で打ったという話です。
足利尊氏は室町幕府を開いた初代将軍であり、
建武の新政を試みた後醍醐天皇に叛いて武家政権を再建した人物です。
後世から見れば、尊氏は有能な政治家であり戦略家ですが、
天皇中心の国家を理想とした彦九郎にとっては「逆臣」、
つまり天皇を裏切り、政権を奪った極悪人に映ったのです。
ある日、彦九郎が京都に上洛し、東山の尊氏の墓(現在も建仁寺塔頭の霊光院にあります)を訪れたとき、彼はその墓前で激怒し、
持っていた鞭で尊氏の墓を何度も叩いたと伝えられています。
墓石に向かって「逆賊め、いまだに祀られておるとは!」と叫びながら鞭を打ち据えた姿は、まさに狂気すら感じさせる異様な光景だったと記録されています。
なぜ彼は、すでに何百年も前に亡くなった人物の墓に対して
ここまでの怒りをぶつけたのか????。
それは彼の思想が現実の政治体制と決定的に対立していたからです。
徳川幕府は足利幕府と同じく
「天皇を頂点に据えながら実質の政権を握る」という仕組みを取っていました。
彦九郎にとっては、尊氏も家康も、同じ「天皇を軽んじた逆臣」であり、
歴史の過ちを正すためにはその元凶である尊氏を断罪しなければならない、
という強い信念があったのでしょう。
また、彦九郎が行ったことで最も有名なもう一つの行動が「皇居遥拝」です。
江戸にいた時も、毎朝、遙か京都の天皇に向かって拝礼をしていたと言われます。
つまり、幕府が居城としていた江戸城に向かっては拝まず、
その先にある天皇に対して、日々信仰にも似た崇拝の礼を捧げていたのです。
これもまた、当時の常識からすれば異様な行動であり、
周囲からは奇人として扱われる一因となっていました。
しかし高山彦九郎の思想と行動は、
後に幕末の志士たちに多大な影響を与えることになります。
吉田松陰や坂本龍馬らもまた、
彦九郎のように天皇を中心とした新しい国家を夢見て行動を起こしました。
幕末における「尊王攘夷」の源流には、間違いなく彦九郎の精神が流れているのです。
彼の人生は決して長くはなく、1793年、46歳で京都にて自害して果てます。
最後は精神を病んでいたとも言われますが、
その死は一貫して己の信念を貫き通した果ての行動でもありました。
高山彦九郎という人物を現代から見れば、極端で危うい理想主義者のようにも映りますが、同時に一切の妥協を許さぬ信念の人でもありました。
時の権力に媚びることなく、歴史の真理と己の道義心を貫こうとしたその姿勢は、
たとえ時代錯誤であったとしても、多くの人の心を打ちます。
墓前に鞭を振るうという行動は、決して正当化されるものではないかもしれませんが、
そこには「本来あるべき国家の姿を取り戻したい」という切なる思いが宿っていたことは間違いないのです。
彼の生涯は、時代に抗い、思想で戦った烈士の姿を、私たちに今も静かに語りかけているように思います。
明日は 寛政の三奇人の 残り二人の話に、、、、、
続く、、、、、。