EXECUTIVE BLOG
2025.6.11
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
高光産業株式会社
昨日までは御朱印巡りの話しから
宗派 宗教を超えて 御朱印巡りの風習が世界に広がれば やがてそれが
世界平和に繋がるのではないか?? と言う 妄想の話しでした、、、。
今日は 御朱印巡りを多く行っている 京都の話に進みます、
私が 京都に行き出したころ 駅前に 武士の格好をした男が 土下座している
銅像を見た事がありました。
大体銅像は 堂々とした立像が多いのですが 何故かこの銅像は土下座していて
顔つきも必死だったので 興味を持ったことがありました。
その話しについてです、、、
京都市東山区にある京阪電車三条駅を降りてすぐの場所、鴨川を渡る三条大橋の東詰に、
不思議な姿勢で腰をかがめている銅像があります。
一見すると誰かに謝っているような土下座の姿勢に見えることから、
地元では「土下座像」と親しまれていますが、
実はこの像は天皇に向かって敬意を表して拝礼している姿をかたどったものであり、
決して謝罪を表しているわけではなかったのです。
この銅像は、江戸時代後期の尊皇思想家である高山彦九郎を模したもので、
彼は京都に来るたびにこの三条大橋に立ち、
京都御所のある北東の方向を向いてひれ伏し、
天皇に対する敬意と忠誠を表していたと伝えられているのです。
江戸時代には東海道の終着点として重要だった三条大橋は、
当時の旅人たちが京都に入る玄関口として機能しており、
その歴史的意味と高山彦九郎の行動が重なって、この場所に銅像が建てられたのです。
この像は昭和3年、昭和天皇の御大典を記念して市民の有志により建てられ、
銅像の土台には連合艦隊司令長官として有名な東郷平八郎による題字が刻まれるなど、
尊皇の精神を体現する象徴として非常に高い評価を受けました。
しかし第二次世界大戦の末期、国家による金属回収政策により、
この像は一時的に撤去され、銅像の代わりに「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」と刻まれた石碑が設置されましたが、地元の人々や歴史愛好者の間で再建の声が高まり、
昭和36年には彫刻家・伊藤五百亀の手により、現在の銅像が再び建立されたのです。
現在の像は元の位置よりもやや西に移されて設置されていますが、
それでも当時の彼の姿をしのぶにふさわしい場所として、
多くの人々が足を止めてはその由来を知り、心を打たれています。
では、この高山彦九郎という人物は一体どのような人物だったのでしょうか??。
彼は1747年、現在の群馬県にあたる上野国新田郡に生まれ、
若い頃から歴史書『太平記』に親しみ、
南北朝時代の南朝側に立って戦った新田義貞らに強い憧れを抱くようになりました。
この影響を受けて、
彼は一貫して天皇を中心とする政治体制こそが日本の本来あるべき姿だと信じ、
その思想を広めるために全国を旅して各地の志士たちと交流を重ねていきました。
当時の幕府は安定していたとはいえ、民衆の不満も高まりつつあり、
彼の思想に共鳴する若者たちは少なくありませんでした。
特に長州藩や水戸藩などでは、後の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えることになります。
彼自身は幕府に対する直接的な反対は避けながらも、自らの信念を曲げることなく
時には奇人とも見られる行動を取りながら、自分の思想を貫いたのです。
最期は九州久留米藩において、藩の動きと思想が対立したために監視下に置かれ、
ついには自ら命を絶つという悲劇的な最期を迎えました。
享年はわずか46歳でしたが、彼が命をかけて示した尊皇の精神は、
後の幕末維新の志士たち、例えば吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞などに大きな影響を与え、明治維新の精神的支柱のひとつとも言われています。
現在の三条大橋に立つ銅像は、そんな高山彦九郎の熱い思いを今に伝えており、
多くの通行人が知らず知らずのうちにその横を通り過ぎていく中で、
歴史を見つめ続けています。
一見、ただの土下座のように見えるこの姿には、時代を超えて伝わる強い志と、
天皇への深い忠誠心が込められており、
歴史を学ぶ上でも、また日本人の精神文化を考える上でも、
非常に重要な象徴と言えると思います。
この像を目にしたときには、単なる待ち合わせ場所としてではなく、
激動の時代を生きた一人の志士の生き様に思いを馳せ、
私たちもまた何かを誓い、何かを見つめ直す機会にしてみてはいかがでしょうか。
この高山彦九郎は 数々の奇行を行ったとされていますが
その中で 私が興味をもったものがあります
それは??????
明日に続く、、、、。