EXECUTIVE BLOG
2025.1.8
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 平城京が何故平安京として京都に遷都したのか??
の話しでした
その京都は 風水的にみても 良い地形だと言う事でした。
この風水的に見て良い地形は 京都だけでなく 鎌倉にも当てはまり
九州では 我が福岡県の大宰府も 風水で言う所の四神相応の地だそうです。
近いところに住んでいながらそんな事も最近まで知りませんでした、、、
で 昨日の話に戻りますが
桓武天皇が 平安京を京都に決めたのには この風水的に良いと言う事は分かりましたが
一体 だれが 桓武天皇に進言したのか??をご存知の方は少ないかもしれませんね、、
桓武天皇に遷都を進言したのは
和気清麻呂と言う人物だと言われています
そう言われても 和気清麻呂が一体何者かを知る必要がありますね、、
先ず 遷都の理由について、、
平安京への遷都について調べていくと、「遷都の背景には怨念が関係していた」という話を耳にしたことがある方もいるかもしれません。
日本の歴史では、自然災害や疫病、不吉な出来事を「怨霊」の仕業と考える風潮がありましたね。
平安京への遷都が決まった背景には、桓武天皇が抱えていた多くの悩みや政治的事情がありました。
その中で「怨念」や「呪術的な影響」が遷都の一因だったとされる要素があったようです。
遷都の背景で最も有名な怨霊伝説が、桓武天皇の弟、早良親王の存在です。
ずっと後ですが崇神天皇の怨霊伝説がありますが、 これは随分まえに書いてますね
で
早良親王は、桓武天皇の政権運営において重要な役割を果たすはずの人物でしたが、
桓武天皇の母の出身地を巡る政争に巻き込まれ、反乱の罪を着せられて投獄されてしまったのです。
その後、流罪となり、道中で絶食して亡くなったのです。
その後、何故か不思議な事に桓武天皇の時代には次々と不吉な出来事が起こったのでした。
それは、、
宮中での疫病の流行 天災(地震や洪水)の多発 桓武天皇の最愛の妻や子どもの早逝
等などです。
これらの不幸が続いたため
宮中では「早良親王の怨霊が関係している」と考えられていました。
桓武天皇は早良親王を鎮めるために彼を「崇道天皇」と追称し、
霊を慰める儀式を行いました。
しかし、宮中に漂う不安を完全に払拭するためには、新しい都で新しい始まりを迎える必要があると考えたと言われています。
そこで これらを進言したのが和気清麻呂だそうなのです。
では この和気清麻呂と言う人物の名前は耳にした事があるかもしれませんが
この人物の話は
明日に続く、、、