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2025.6.4
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日まで京都の大きなお寺にある塔頭の話しでした。
日本人にとって仏教は身近な宗教ですが 知らない事も多々あります。
京都観光と言えばやはり寺社仏閣ですが 京都を訪れる多くの観光客が
目指すのは 清水寺ではないかと思います。
私も何度も足を運びました、、、、
所が この清水寺の宗派は❓と聞かれても 全く知りませんでした。
今日はこの清水寺の話に進みます、、、。
京都・東山にある清水寺は、観光地としても有名ですが、
それ以上に深い信仰の歴史を持つ寺院なのです。
こ清水寺の宗派は「北法相宗」に属しており、しかもその総本山という特別な位置にあるのです。
しかし「北法相宗」と聞いても、多くの人にはなじみが薄いかもしれませんね。
この宗派の由来を知るには、まず「法相宗」という元となる宗派の理解が必要です。
法相宗は、インドの唯識思想を基にした仏教の一派で、
「すべてのものは心がつくり出している」という教えを中心としています。
つまり、外の世界が問題なのではなく、自分の心の在り方が苦しみや迷いの原因だと説く教えです。
この教えは、唐の高僧・玄奘三蔵によって整理され、日本には奈良時代に伝えられました。奈良の興福寺や薬師寺がその中心となり、一時は大きな勢力を誇りました。
しかし平安時代以降になると、天台宗や真言宗などが隆盛し、法相宗は次第にその存在感を薄めていきました。
それでもその教えや信仰の流れは残り、後に清水寺を中心とする流派が生まれました。
これが「北法相宗」です。清水寺はその信仰の中心となり、時代を超えて人々の心のよりどころとなってきました。
では清水寺はどのようにして誕生したのでしょうか??。
時は奈良時代末の778年、延鎮という僧が修行の旅の途中で「音羽の滝の辺りに霊地がある」との夢のお告げを受けました。
その場所を訪ねた延鎮は、音羽山で修行する行叡という仙人に出会います。
行叡は千手観音を信仰しており、延鎮にその教えを伝え、自らは命を終えました。
延鎮はその教えを受け継ぎ、そこにお堂を建てました。
そこへ後に坂上田村麻呂という武将が訪れます。
彼は朝廷から東北地方の平定を命じられていた征夷大将軍で、戦の成功を祈るため、
この霊地に深く心を動かされ、延鎮のために仏殿や伽藍を建てて寺を創建しました。
これが清水寺のはじまりとなります。
清らかな水が湧く音羽の滝の存在から、「清水寺」と名づけられました。
この滝は今でも「延命水」や「観音水」として親しまれ、多くの人が手を合わせます。
清水寺は観音信仰の中心地でもあります。
本尊は十一面千手観音菩薩で、願いを聞き入れ救ってくれる仏様として古くから信仰されてきました。
平安時代には庶民の間でも観音詣でが盛んになり、
特に江戸時代には「清水の観音様」にお参りすることが一大ブームとなりました。
あの有名な「清水の舞台から飛び降りる」という言葉もここからきています。
それほど真剣な願掛けの場所だったのです。
明治時代になると、清水寺は法相宗の本山から独立し、「北法相宗」として宗派を名乗るようになりました。
とはいえ、今でも宗派としての寺院数は少なく、ほぼ清水寺一寺で信仰を支えていると言っても過言ではありません。
それだけに清水寺は、厳密な宗派というよりも、広く開かれた観音信仰の象徴として親しまれています。
特定の戒律や教義よりも「観音様への素朴な願い」が中心にあり、
宗派を問わず多くの人が訪れ、手を合わせる姿が見られます。
現代に生きる私たちにとっても、清水寺はただの観光地ではなく、
静かに心を整え、願いを込めることができる大切な場所であり続けています。
霊水に触れ、観音様の前で手を合わせることで、忙しい日常の中にあるほんのひとときの安らぎと気づきを頂くことができる、
そんな場所が清水寺なのですよ、、。
しかし 清水寺の舞台って そもそもそこでお芝居とかしてたのか?? とかにも
興味が湧きますね、、、、
その話しは
明日へ続く、、、。