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社長&顧問ブログ

2025.6.14

等持院

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 土下座している長岡興就の銅像の話しでした。

土下座している銅像が 彦九郎とこの長岡の他にもあるのではと思い調べて見ましたが、

どうも 他には無さそうでした。

やはり 銅像は立派な感じで作るのが常識なのかもしれませんね、、、、

 

で 今日は 寛政の三奇人の話に進む予定でしたが

その中の一人である 高山彦九郎が足利尊氏の墓を鞭で叩いたと言う事を

先日のブログで書きました。

私もこの話に興味を持って かつて 足利尊氏の墓を見に行った事があります。

 

足利尊氏と言えば室町幕府の初代将軍ですから

さぞ素晴らしく大きな墓だと思っていたのですが それが意外にも小さく

質素だったのです、、、

 

今日は この話に進む、、、、

 

足利尊氏の墓が「意外にも小さい」と言われる理由には、

いくつかの歴史的・宗教的・政治的背景が複雑に関係しています。

 

足利尊氏は鎌倉幕府を倒して室町幕府を開いた武将であり、

武家政治の大きな転換点を作った人物ですよね、、。

 

彼の功績や影響力を考えれば、豪壮な廟や巨大な墓が作られてもおかしくはないのですが、実際に京都・等持院にある尊氏の墓は、簡素でひっそりとした石塔にすぎないのです。

 

この事実は、現代の人々に少なからず驚きを与えるものですが、

その背景にはいくつかの深い事情が隠されています。

 

まず第一に挙げられるのは、足利尊氏自身の死生観と宗教的価値観です。

尊氏は晩年において禅宗、特に臨済宗に深く帰依していました。

尊氏が敬愛していた禅僧・夢窓疎石の影響もあり、死後の華美を避け、

あくまで質素な供養を望んでいたと考えられます。

 

禅宗では、死後に立派な墓を建てて名を残すことは虚飾とされ、

むしろ生前の修行と悟りこそが重視されるため、

尊氏自身が「質素な葬儀をせよ」と遺言していた可能性が非常に高いのです。

 

このような価値観が、質素な墓としての形に強く影響したものと見られます

 

第二の要因として、足利尊氏の評価が歴史的に安定していなかったことが挙げられます。

尊氏は建武の新政で天皇による親政を試みた後醍醐天皇と対立し、

南北朝時代の混乱を招いた張本人として、南朝側からは「朝敵」と見なされていました。

明治以降の皇国史観では、南朝が正統とされ、尊氏は裏切り者とされることもありました。

 

こうした経緯から、尊氏の功績は正当に評価されにくく

墓所も国家的に大きく整備されたり、顕彰の対象として扱われることが少なかったのです。

 

第三には、尊氏の墓がある等持院の位置づけも影響しています。

等持院は、尊氏が自ら建立した臨済宗天龍寺派の寺院であり、

禅の修行と供養の場としての性格が色濃い場所です。

 

この寺の庭園の一角に建つ尊氏の墓は、五輪塔という簡素な石塔で、

装飾などもほとんどなく、ひっそりとした佇まいです。

 

この五輪塔は、あくまでも象徴的な供養塔であり、立派な建造物としての「墓」ではなく、精神的な供養の対象としての性格を持っています。

つまり、墓の大きさではなく、霊を静かに慰める場所として存在しているのです。

 

第四に、後継者である足利義詮や義満による政治的な判断も関係しています。

義満は三代将軍として幕府の権威を高め、南北朝の合一を実現するなど、

大きな業績を残しましたが、

その過程で、あえて尊氏個人を神格化するような政策を取ることはありませんでした。

尊氏を持ち上げるよりも、義満自身の統治の正統性を強調する必要があったため、

尊氏の墓を豪壮に整備して歴史的権威を確立するという流れにはならなかったのです。

 

また、時代が下るにつれて、等持院や尊氏の墓も戦乱や混乱の中で荒廃しました。

応仁の乱をはじめとする戦乱の影響で、寺院そのものが被害を受け、

尊氏の墓も長らく放置された状態となっていたと伝えられます。

 

その後、江戸時代に入ってある程度の整備は行われたものの、

創建当時の姿は既に失われており、現在の墓も後代に再建されたものであると考えられています。

 

つまり、尊氏の墓が小さいという事実には、

本人の思想、宗教的価値観、時代の政治的背景、歴史的評価の揺れ、

そして戦乱による荒廃など、複数の要素が複雑に絡み合っています。

 

尊氏は戦乱の中に生まれ、朝廷と幕府の間で葛藤を抱えつつ、

武家政権の新たな形を模索した人物でした。

 

その生涯が単純な英雄譚として描かれることがなかったように、

彼の墓もまた、豪壮な記念碑ではなく、静かにその存在を伝える石塔としての姿を保っています。

 

小さな墓だからこそ、尊氏という人物の精神性、そして当時の歴史の複雑さを物語る象徴的な存在と言えるでしょう。

 

等持院の庭の一角にあるその墓は、今も静かに訪れる人々を迎え、歴史の重みと禅の静寂の中で尊氏の魂を慰めているのだと思います。

 

一度京都に行かれた時はご覧ください、、、。

 

明日は 寛政の三奇人の残りの人物の話しに進む予定でしたが、、、

そもそも彼は????、、、、

 

の話は、、、

 

明日に続く、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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