EXECUTIVE BLOG
2025.6.13
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 寛政の三奇人の一人の
高山彦九郎の話しでした。
今日は 残りの二人の話に進む予定でしたが
彦九郎の銅像は 立像ではなく 土下座をしていると言う珍しい銅像です。
こんな銅像は 他には無いと思っていましたが
実はあったのです、、、、
今日はその話しに進みます、、、、、。
天草にある義民・長岡興就の銅像は、一目見ると非常に珍しい姿をしています。
なんと、彼は銅像の中で土下座をしているのです。
多くの銅像は胸を張り、誇らしげに立つ姿で建てられますが、
この銅像は逆に、地に頭をこすりつけるような姿で、深く頭を下げています。
この異例の姿勢には、
長岡興就という人物の生涯と、その心からの願いが込められているのです。
長岡興就は江戸時代中期、天草郡の庄屋であり、地域の代表として民衆と藩政との間を取り持つ立場にありました。
当時の天草は、肥後熊本藩に属し、重い年貢や労役に苦しむ民衆が多く
特に干ばつや台風、冷害などの天災が重なった年には、
その生活はまさに生き地獄のような苦しみでした。
そうした状況の中、興就は単に庄屋という立場にとどまらず、民衆の声を代弁し、
何とかその苦しみを和らげようと奔走します。
ところが、上に立つ者が常に善意で民を理解するわけではありません。
むしろ、幕府や藩政の側は、年貢の未納や減免を認めれば他の地域にも波及すると考え、
厳しく民を締めつけようとしました。
その中で、興就は民の命を救うため、命がけで直訴という手段を選びます。
直訴とは、本来であれば厳しく禁じられていた行為で、
領主を飛び越えて幕府に訴え出ることは「無礼打ち」に相当し、
最悪の場合即刻処刑される危険なものでした。
それでも彼は、民の苦しみを放ってはおけず、自らの命を懸けてこの禁を破る決意をします。
彼が取った方法が、まさにあの土下座です。
興就は熊本城下に赴き、大勢の目がある中で人目もはばからず、
道路にひれ伏し、城の役人や藩の上役に対して、
民の苦しみを救ってほしいと涙ながらに訴えかけたのです。
その姿は、まさに命乞いでもあり、民衆の命を代弁する魂の叫びでもありました。
土下座とは、本来自らの非を詫びる最大級の姿勢でありますが、
このとき興就が示したのは、罪ではなく慈しみと責任でした。
自分が民の苦しみの一切を背負うという覚悟、その思いの深さが、
彼をして土下座に導いたのです。
これに心を動かされた城の人々の中には、興就の誠意と行動に打たれ、
上層部に働きかけを行った者もいたと言われています。
そして最終的には、彼の願いが聞き入れられ、年貢の減免がなされ、
数多くの民の命が救われる結果となったのです。
けれどもこの直訴の代償は小さくありませんでした。
規則を破った責任として、長岡興就は庄屋の職を解かれ、
後には幽閉同然の暮らしを強いられます。
しかし、彼を慕う村人たちは彼を決して忘れず、
彼の精神は「義民」として今も語り継がれています。
天草に建てられたこの銅像は、その土下座の姿を永久に残すことで、
長岡興就が命をかけて守ろうとした「人のために尽くす心」を後世に伝えるものです。
この姿を見ることで、
見る者は自分が誰かのためにどれだけ心を込めて行動できているかを問われるのです。
彼の土下座は、決して屈辱の象徴ではなく、最高の誇りの形であり、
正義と慈悲の実践者としての証です。
その静かな祈りのような姿は、
現代に生きる私たちにも、多くの問いかけをしてくれているように感じられます。
正義のために己を捨てる勇気、誰かのためにひざまずく覚悟、
それらを一身に示した人物が、長岡興就だったのです。
この銅像の前に立てば、誰もが無言のうちにその精神に打たれ、
心を動かされると思います。
天草に行かれた時は 是非ご覧ください、、、。
明日は
寛政の三奇人の話しに続く、、、、。のか?????