EXECUTIVE BLOG
2020.12.6
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 終戦に向けての話から
いわゆる 日本で一番長い日と言われた
昭和20年8月14日正午から 翌15日までの話でした
この一日を知るだけで 大日本帝国の仕組みを理解できると言っても
過言ではないかと思います。
天皇の大権とは何か? 陸軍省と参謀本部の関係など
今では理解できない事ばかりです
しかし 過去を学ぶことで現在を知ることができるのではと思います
特に 戦時中の言論統制はひどかったと聞いています。
殆どのメディアが 軍部の発表のままその戦果を流すので
多くの国民は 多数の敵機が飛来してきているのにも関わらず
毎日が勝った勝ったと流れそれを信じていました。
それが突然の玉音放送と言う形で 敗戦を知ることになったのです
それまで 国民は誰一人天皇陛下のお言葉を聞いておらず
地方においでになる時も 絶対に頭を上げてはいけないとの命令で
お姿すら見ることも許されていなかったのです。
一見すると独裁者であるかのように見える天皇は 直接命令をすると言うとは無く 政府が決めた事に対して
裁可をするだけだったので
天皇陛下は戦争には反対でしたが 当時の政府軍部が 戦争しなければ日本は補給路も絶たれて生存できなくなるので 戦争を開始しますと言われ 渋々裁可されたのです
しかし 終戦の時に 初めて意見を求められたので 戦争終結に賛成との意見を
述べただけで それは命令ではないのです
その意見を元に 閣議で終戦を決定したのです。
昨日までの話は そのような事でした 昔の陸軍省は 今の 市ヶ谷の防衛省があるところです。
今は建物は立て替えられましたが 今から50年前には そこに
作家の三島由紀夫率いる盾の会が押し入り そこのバルコニーから自衛隊に対して
クーデターを起こせと訴えた後 建物の中で 切腹自殺を遂げたのです。
三島由紀夫と言えば ノーベル文学賞候補にまでなった作家でしたが
日本が戦後平和ボケするのを危惧して 盾の会を設立して 美しい日本を
守ろうと活動していたのです
当時は 学生運動が激しいころで 東京大学が学生運動の拠点にもなっていました
その全学連が集まる講堂へ単身乗り込み 数百人の学生運動家と討論を行い
最後には 学生運動家が 思わず 先生 と呼んでしまうと言うハプニングまで
あったのです。
学生運動家をも魅了した人物だったのですね
もし あのまま 執筆活動を続けていれば ノーベル文学賞を手にしてのでは
と思うと残念です。
三島由紀夫が自決した市ヶ谷の陸軍省から終戦の日に反乱軍が決起したのですが
それも 一日で終了してしますのですが 最後まで抵抗した将校は
最後は NHKまで出向き アナウンサーを拳銃で脅し 最後の訴えを
述べさせろと迫るのですが この時はそのアナウンサーの命がけの抵抗で
放送する事ができず
最後は 皇居周辺に 徹底抗戦のビラを撒き
それから 皇居に向かって正座して自らの頭を拳銃で撃ち抜き自殺を遂げたのでした。
皇居周辺から 靖国神社 市ヶ谷にかけて は 元近衛師団跡などもあり
いまでも そこを通るたびにそのことを思い出させます。
玉音放送が有ってからは、連合国はしばらく抵抗があるのではと
危惧していたのですが ほぼ一糸乱れず日本軍が武装解除に応じた事を
驚いたのです
そこで 米国はこの事を上手く利用して占領政策を進めるべく
策を練るのです
その策とは??
それは 明日に続く、、。