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社長&顧問ブログ

2025.3.10

その後の青年将校

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 二・二六事件の青年将校たちの思想的な指導者であった 北一輝に

ついてでした。

彼の思想を基に 青年将校たちは決起したのかもしれません。

彼等の思惑に反して 最後は逆賊として処刑される事になるのです、、、

今日は その話しに進みます、、、。

 

昭和11年(1936年)2月26日、日本陸軍の青年将校たちは

「昭和維新」を掲げ、クーデターを決行しました。

彼らは軍と政府の腐敗を正し、昭和天皇の親政を実現することを目的としていました。

しかし、事件はわずか4日で鎮圧され、彼らの目論見は失敗に終わってしまうのです。

 

事件の経緯としを今一度見てみますと

2月26日未明、青年将校ら約1,500名の反乱軍は、首相官邸や警視庁、陸軍省などを襲撃しました。

この際、岡田啓介首相は暗殺を免れたものの、

斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らが殺害されました。

彼らは軍上層部や政府高官に圧力をかけ、新政府樹立を狙ったのです。

 

当初、陸軍内部には同情的な者もいましたが、

昭和天皇が反乱軍を「逆賊」と断じ、鎮圧を厳命したことで情勢が変わりました。

2月29日には政府・軍が反撃を開始し、反乱軍は無条件降伏を余儀なくされてしまったのです。

事件に関与した将校らは軍法会議にかけられ、首謀者17名が銃殺刑に処され、

他の関与者も禁錮刑や懲役刑を受けました。さらに、

彼らと思想的に近い皇道派も陸軍内部で影響力を失い、

この事で統制派が軍の主導権を握ることになったのです。

 

この事件を契機に、軍の一元化が進み、政治への介入が強まりました。

政党政治は急速に衰退し、軍主導の国家体制が確立されました。

その結果、日本は日中戦争(1937年)や太平洋戦争(1941年)へと突き進むことになったのです。

 

歴史にもしもはありませんが、

もし二・二六事件が成功していたら、日本の戦争への道筋は異なっていたかもしれません。しかし、昭和天皇が天皇親政を否定し、反乱軍を鎮圧したことで、

軍部の統制が一層強まってしまったのです。

この事件は単なるクーデター未遂ではなく、日本の政治・軍事の方向性を決定づける歴史的転換点だったと言えると思います。

 

事件後青年将校たちは、

東京・代々木の陸軍刑務所で処刑されてしまう事になってしまいました。

彼らは軍法会議で迅速に裁かれ、短期間のうちに刑が執行されたのです。

 

遺族たちは、事件後も軍部や政府の監視下に置かれ、社会的な制約を受けることが多かったとされています。

一部の遺族は公の場での発言を控え、静かに暮らすことを余儀なくされました。

しかし、戦後になると、遺族の中には事件の再評価を求める動きも見られ、

今でも歴史的な検証が続けられています。

 

さて この事件で命を奪われた渡辺錠太郎教育総監ですが、、

かれは 寝込みを襲われ、、、、

その後、、、、、

 

の話は 明日へ続きます、、。

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