EXECUTIVE BLOG
2020.12.16
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 14日が忠臣蔵の討ち入りの日でしたので
忠臣蔵に関する話でした。
我々が知っている忠臣蔵は 映画やドラマでの忠臣蔵でしたから
そこは 視聴者にウケる内容になっていると思いますし
江戸時代の浄瑠璃等でも弱いものが強いものに立ち向かう正義の味方の
ような扱いで 義士と呼ばれ英雄視されました。
しかし 実際は そんな英雄でもなく生身の人間で
単に 自分たちの保身のために再就職先を有利な条件で勝ち取るための
討ち入りでなはなかったのか? と言う見方が出来る気がします。
義士自身が 仇討を宣言して 英雄とたたえられ再就職先から
声がかかると期待していたにも関わらず
結果は 切腹を命じられてしまうのです
その時 一同皆 そんな馬鹿な! と思ったに違いありません
あれだけ練りに練って計画を立て 世間や家族に良いところ見せて
あちこちの殿様からお呼びがかかかり これで 家族に苦労を
させずに済むと思ったに違いないと思っていたところに
お呼びはお呼びでも 切腹のお呼びがかかってしまったのですから
一同唖然としたに違いないのです。
では、なぜ赤穂義士は切腹を命じられてしまったのか?
理由は簡単で、
彼らの行為が時の政府である幕府から
義士達が思う「あだ討ち」と認められなかったからなのです。
事件後、幕府は彼らの処分を検討し、
当初は、幕府上層部においても彼らを好意的に見る人もいました。
きっと 平和ボケしていた幕府の 馬鹿なことしやがってと
思ったに違いありません。
前例がない事を判断することは 今も昔も本当に困難だったと思います。
それまでの数あるあだ討ちは
「父母兄弟を中心とした親族のため」が大半であったため
今回のような「主君のため」というのは初めてのケースだったので
「あだ討ちとして認められるか」と言う
初めての事件への対応をどうするかが議論されました。
そして結論に至らぬまま、
最終的には将軍様のおひざ元である江戸城下を
「徒党」を組んで押し込んだという「罪」で、義士らは切腹を命じられてしまったのです。
幕府は自分達のメンツを大事にしたのではと思います。
一方、 義士たちは そんな馬鹿な!と思ったのではないでしょうか?
ドラマでは「浅野家の悲劇」ばかりが強調されますが、
家来たちは自分達の殿がバカな刃傷事件を起こさなければ 安泰に家族と暮らせて
幸せな一生を過ごせたと切腹の瞬間まで殿を恨んだのではと思うのです。
一方の吉良も 城でのルールを教えてやったのにバカ殿から切りつけられた上に
被害者ながら、相手を切腹のうえ改易に追いやった「負のイメージ」がつきまとってしまい幕府も対外的なイメージを考慮して彼を免職せざるを得ませんでしたので
こちらも 理不尽な扱いを受けたと思っていたのではと思うのです。
その上一等地にあった屋敷は召し上げられ、
当時は江戸郊外へ移り住むことになってしまい、
真相はどうであれ十分な社会的制裁を受けていたのにも関わらず
その矢先に赤穂義士による突然の討ち入りで、あわただしくその62年の生涯を閉じて
しまったのです。
これでは死んでも死にきれない思いだったと思います。
しかし近年、彼の領地があった三河吉良(愛知県西尾市)では歴史を
見直して研究をした結果「名君、吉良義央」だったとして名誉回復が叫ばれています。
この「忠臣蔵」のように、ドラマや小説で知る歴史は、
「現代人が見て楽しい物語」に脚色されていることがしばしばだと感じます。
「歴史に興味をもつ」ためには、ドラマや小説もいいきっかけにはなりますが、
それを史実と鵜呑みにはしないほうが良いと思います。
昔の人間でも生身の人間です。
ドラマや小説で歴史に興味を持つのはよいことですが、
それでは真実が見えないと思います。
それで 話は
先日の太平洋戦争ごの極東軍事裁判に話に一度戻りたいと思います
その時の理不尽な話とは??
それは
明日に続く、、。