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社長&顧問ブログ

2024.10.26

アメリカ横断駅伝

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

昨日までは

箱根駅伝の話しから もう一つの箱根駅伝の話しでした。

 

ゴミ拾いの駅伝があるとは 私は全く知りませんでした。

 

で今日の話は

箱根駅伝は 最初から箱根を走る事になっていたのか???

の話しになります。

 

 

そもそも 金栗さんは

「日本人がアメリカ大陸を走って横断したら世界中が驚くのでは」との壮大な構想を持っていたのです

 

金栗さんが描いた「アメリカ大陸横断駅伝」のコースは、

サンフランシスコを出発し、アリゾナの砂漠を走り抜け、ロッキー山脈を越え、

ニューヨークへゴールするというものでした。

 

この構想を実現するため、翌年2月に予選としての出場選手選考会が行われることになった。

現在では10月の予選会を経た「本戦」である箱根駅伝ですが、

当時はアメリカ横断の代表選手を決める「予選会」という位置づけだったのです。

 

アメリカ大陸横断駅伝の代表選手選考レースを行うにあたり、

この時に3つの候補が提案されたと言うのです。

 

一つ目が

徳川御三家にちなんで、水戸―東京間片道8区間

二つ目が

日光の湯元から宇都宮を経て、陸羽街道を通って東京に着く片道8区間(約180km)

 

三つめが

東京の報知新聞社前を発着点とし、東海道を箱根の関所跡で折り返す往復10区間

 

の三つの案が出たそうです。

 

この案を基に、関係者がコース研究を進めた結果、

一つ目の片道コースは運営上の難点がある

二つ目の陸羽街道は道路や交通機関との関連が悪く、中継地の選定にも難があり、

大勢の宿泊も容易ではない――といった理由から、

水戸案、日光案は取り下げられたそうなのです。

 

この結果

“天下の険”の箱根の峠をロッキー山脈になぞらえた「箱根ルート」が選ばれたと言うわけです。

 

コース選定の理由には、同じ道を東京に引き返すという往復コースのほうが勇壮であり、宿泊や通信連絡も便利だという点が決め手だったようです。

 

あと開催時期については

長距離トレーニングの効果を上げるという観点から、

金栗の「厳寒か酷暑がよい」という意見が採用され、最初は2月で

現在の正月開催になったのは1956年(昭和31年)からでした。

 

その後、1987年(昭和62年)に日本テレビが全国放送を始めたことから、

“正月の風物詩”になったのです。

 

で 肝心のアメリカ横断駅伝はどうなったのか?? と言うと

結局は行われていませんね

 

色々な説がありますが

あまりにも過酷なコースだとも言われていますが

 

実は 調査中なのかどうかははっきりしませんが ここを走る予定だった

早大生が刺殺される事件があったようです。

 

命の危険を冒してまで大会を開催さるわけにはいきませんね、、、

 

とにかく 色々な事があって 箱根駅伝が始まり今に続いていますが

もう一つ 謎があります

 

その謎とは????

 

 

 

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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