
EXECUTIVE BLOG
2025.5.24
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは ローマ帝国の国教がキリスト教になる前は多神教だったと言う話でした。
では アラブ社会がイスラム教になる前はどうだったのか??? の話に
今日は進みます、、、、。
私たちは、イスラム教というとコーランを重んじ、メッカに巡礼し、
一日五回礼拝を行うという信仰の姿をすぐに思い浮かべます。
しかし、そのイスラム教が7世紀に預言者ムハンマドによって広められるより前、
アラビア半島の人々は一体どのような宗教を信じ、日々を送っていたのでしょうか??。
実は、イスラム教が誕生する以前のアラビア半島、特に現在のサウジアラビアの中心部であるメッカやヤスリブを含む地域では、多くの人々が「多神教」を信じていたのです。
これは、ギリシャやローマ、古代エジプトなどと同じように、さまざまな神々がいると考え、それぞれの神に祈りを捧げ、生活の中で神々の力を頼りにしていたということです。
特に有名なのは「ハブァル」「ラート」「ウッザ」「マナート」といった神々です。
これらの神々はそれぞれ愛や戦、運命などをつかさどる存在として信じられており、
各部族や都市がそれぞれの守護神を持っていました。
そしてこれらの神々の像は、「カアバ
」と呼ばれる神殿に安置されていました。
カアバはイスラム教ではアッラーの家として神聖視されており、
ムスリムにとって巡礼の目的地ですが、
当時はさまざまな偶像が並ぶ多神教の神殿だったのです。
また、アラブの人々の信仰は、単なる神々への祈りだけではありませんでした。
自然や星々、風、雨などの力にも神秘的な意味を見出し、
神聖なものとして恐れたり敬ったりしていました。
アラビア半島は砂漠が多く、厳しい自然環境の中で生きていたため、
自然現象そのものが神のような力として信仰の対象になることも多かったのです。
こうした信仰のあり方は、特に「部族社会」という背景と深く関わっているのです。
当時のアラビアは、現在のような国家ではなく、
血縁を中心とした部族がそれぞれに独立して生活していました。
部族ごとに信仰する神が異なり、神の存在はその部族の誇りであり、
アイデンティティそのものでした。
そのため、他の部族の神をけなしたり、像を壊したりすることは重大な侮辱とされ、
争いの原因にもなりました。
しかし、そんな中にも一神教の影響がすでに少しずつ広がっていました。
その一つが「ハニーフ」と呼ばれる人々の存在です。
ハニーフは、当時の多神教に疑問を持ち、古代アブラハムの神、
つまり唯一神を信じようとした人々のことです。
彼らは、ユダヤ教やキリスト教に触れながら、
自分たちなりに唯一神アッラーを崇拝する信仰のあり方を模索していました。
ただし、この時点ではまだ宗教として広く定着していたわけではなく、
ごく一部の人たちが実践する精神的な運動にとどまっていただけだったのです。
さらにアラビア半島の一部、特に北部や交易路に近い都市では、
ユダヤ教やキリスト教の影響もありました。
特にユダヤ人の商人や移民が住んでいたマディーナでは、ユダヤ教の習慣が根付いており、律法や一神教の考え方が存在していました。
また、キリスト教徒もアラビア周辺にはいて、エチオピアやビザンツ帝国(東ローマ)との接触を通じて、その教えがアラブ社会に少しずつ影響を与えていたのです。
このように、イスラム教が生まれる以前のアラビア半島では、
基本的には多神教が主流であり、部族ごとの神々が信仰されていたのです。
しかし、その一方で、唯一神アッラーを信じる動きや、
ユダヤ教・キリスト教の影響も一部に存在しており、
宗教的には非常に多様で流動的な状況だったのです。
このような宗教的混在の中で登場したのが、預言者ムハンマドだったのです。
彼はカアバを多神教の偶像崇拝から解放し、本来の唯一神アッラーを信じる場に戻すことを目指しました。
ムハンマドは、神の啓示を受けてイスラム教を説き、当時の社会の価値観を大きく変えていくことになります。
つまり、イスラム教はまったく新しい宗教というよりは、それ以前の多神教的な風土と、
一神教的な伝統の両方を背景にして生まれた宗教だと言えるのです。
厳しい自然と部族社会の中で信仰が発展し、それがムハンマドによって統合され、
新しい宗教として形を整えていったという流れと言う事になるのです。
このようにして、アラビア半島の信仰は多神教からイスラム教へと大きく転換し、
それが中東、さらには世界にまで影響を及ぼす宗教へと成長していく事になったのです。
ここでまた疑問が湧くのは
キリストは神の子と言われていますが ムハンマドは神の子ではないのか?
どちらも 信じる神とは????、、、、、
等の話は、、、、、
明日へ続く、、、。