EXECUTIVE BLOG
2024.12.10
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
三国軍事道同盟の一員で 枢軸国と言われていたイタリアが
いつの間にか 連合国になっていたと言う話でした。
昔、私も イタリアが戦勝国と聞いた時には耳を疑いました。
使ってはいけない言葉ですが
イタリアの事を イタ公と呼ぶ人が居ました。
これは いつの間にか 枢軸国から連合国に寝返った裏切りものだと
言う事で このような言葉を発する人が居たのだと思います。
しかも、終戦間際には 日本に対して宣戦布告しているのです。
軍事同盟を結んでいた相手から 宣戦布告までされたのでは イタ公と言いたくなるのも
分かるような気がしますし
更には あろうことか 日本に対して 賠償金の請求までして来てるんです。
余程歴史を勉強した方でないと このような経緯はご存知ないかもしれませんね
日本の学校も明治維新後をあまり教えてませんでしたが
今の学校ではどうなんでしょうか?
連合国側に寝返った背景に イタリアの態勢を先ず理解する必要があります
イタリアの第二次世界大戦終了は、複雑かつ特殊な形で行なわれていたのです。
先ほども書いたように、
多くの日本人の常識としては、イタリア王国は第二次世界大戦では枢軸国として参加し、
ファシスト党のベニート・ムッソリーニ総統が全権力を握っていたと思っているかもしれません。
しかし、イタリアは立憲君主国であり、国王エマヌエレ三世が元首を務めていたのです。
日本の終戦の日は 1945年 昭和20年ですよね、
詳細までは 分かりませんが
イタリアは戦争が始まって以来 とにかく連戦連敗だったそうです
そして 最後は ナチスドイツがイタリアに対して攻撃を仕掛けてきたのです。
ドイツ軍の進駐でパニック状態になった国王と政権の閣僚たちは、
1943年9月8日にローマを捨てて連合軍の占領地域に逃亡してしまったのです。
これがイタリアにとっての終戦の日となっているようです。
まだ日本軍が太平洋で米軍と戦っている真っ最中ですよね
日本も敗戦濃厚になりだし 学生を戦地に行かせる学徒出陣が行われた年です。
この年に 私の父は 旧制高校の第八高等学校時代に 学徒出陣として招集されて
ペンを剣に握り替えて 戦地に赴いています。
今の高校生に いきなり 戦争に行けと命令が出たらどんな気持ちでしょうか?
当時は有無を言わさず 戦地に行かされていたのですから恐ろしい時代でしたね、、。
とにかく ムッソリーニが退陣後
その後の政権を担当したバドリオ政権は連合国側として、
1943年10月13日にドイツに対して宣戦布告し、
1945年7月15日には日本に対しても宣戦布告をしてきたのです。
そして、 1946年の国民投票により、戦時中に国民を捨てて逃亡した国王は廃位され、
王国は消滅しイタリアは共和国となったのです。
1955年に国連加盟を果たし、連合国としての一連の振る舞いが認められ、
国連の敵国条項対象国とはなっていないとも言われています。
1945年7月15日に対日宣戦布告したのはしたのですが
実際の交戦は発生していないものの、ずうずうしく日本に対し戦後賠償まで要求してきて、要求はしつこく続いたので、
日本も1972年7月になってこれ以上相手にしても仕方がないと言うことで
120万ドル支払ったようです。
ただし、日本側はイタリアの請求権を認めず、あくまでもこの支払いは賠償や補償ではなく一括見舞金であるとの立場を崩していないとう事です。
このように イタリアは枢軸国から連合国へ寝返って まんまと戦勝国となり
前々からの謎の 軍事裁判が行われなかった理由はこういう事だったのです。
それにしても イタリアの国王は連合国側へ逃げたと言う事で その後王政もなくなるのですから 何とも言えません
日本の天皇陛下は 最後まで皇居に留まり そして終戦後 自分が全責任をとるので
国民を守って欲しいと マッカサー司令長官に願い出て
命乞いに来たと思っていたマッカサーはこの言葉に感激して
その後の戦争裁判で 天皇に責任が及ばないようにしたとも言われています。
イタリアはズルいのか 賢かったのか???
は イタリアの国民の判断に任せたいと思います。
しかし 日本は 国土が焦土と化すまで 戦いましたね
この背景に
鎌倉時代のあれがあるんですよね、、、、
その話は何か?????
は
明日に続く、、、。